10 植物



第10回サイファイ・カフェSHE 


「植物という存在を考える」 

2016年11月17日(木)・18日(金)
18:30~20:30

ルノアール ・ 飯田橋西口店 2号室



(会場と時間がこれまでと違っています)


一般: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます) 

学生: 無料(飲み物代は別になります) 


 終了後、参加者の懇親を兼ねた会を予定しています。 

参加希望の方は、she.yakura@gmail.comまでお知らせください。


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第10回目に当たる今回は、われわれの認識の背景に押しやられることが多い植物という存在を取り上げます。人類の歴史の中で植物はどのように見られてきたのか。その歴史から、われわれの認識をどのように評価するのか。最新の科学の成果やわれわれの観察を通して、生命や知性という大きな問題に対する新しい見方が生まれる可能性はないのか。このような切り口から植物について振り返り、さらに大きな問題にまで思索が広がることになれば面白いと思っています。     

今回は時間を少しだけ長く取ることのできる会場を選びました。講師が背景にある事実を40-50分話した後、参加者の皆様に意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。    

 (2016年8月21日)



会のまとめ

今回のテーマは、十年以上前の個人的な発見を基に選ばれた。当時、退職を前に省察の時間を求めたのか、それ以前のわたしからは考えられないお昼の散策を始めた。職場周辺を当てもなく歩くだけである。その過程で、それまで全く目に入っていなかった植物という存在が意識に上るようになってきた。一年間継続的に観察することにより、姿を変えながらそこに確かに生きている存在として植物を見ることができるようになったのである。その上、その美しさに目を奪われるようにもなり、わたしにとっての大発見になった。

植物という大きな対象を前にした時、どのような切り口にするのかは人それぞれだろう。わたしの場合、歴史の中で植物はどのように見られてきたのか、植物を無視する態度、あるいは植物が目に入らないという傾向はわたしだけのものだったのか、そしてそもそも人間のものの見方にはどのような危うさが潜んでいるのか、といった問題意識が根底にあったようである。そこで人類の遺産に当たったところ、そこに一つの流れがあることが分かってきた。その流れの概略を紹介することが今回の講師の仕事であった。

古代ギリシャに帰ると、そこにはプラトンとアリストテレスがいる。プラトンは動物中心主義の中で植物を定義し、植物は人間のために作られた受動的で心を持たない存在と考えた。さらにアリストテレスは生物の能力を栄養、感覚、知性に分け、植物には感覚、知性がないと見做し、植物を下に置く 「生命のヒエラルキー」 を構築した。排除の哲学を強化したと言ってもよいかもしれない。

しかし、アリストテレスの学友でもあったテオプラストスは『植物誌(Historia Plantarum)』を著わし、アリストテレスとは異なる植物観を展開した。すなわち、植物を植物として観察し、動物との関連性・連続性を強調。植物を感覚や知性を欠く受動的な存在としてではなく、生における自律と目的、意志、心を持つ存在、種や果実を作り、場所を選び、栄えさせようとする欲求を持つ存在と見做した。彼が植物学の祖と言われる所以である。

ただ、古代ローマ時代に入り、『博物誌』(Naturalis historia)を著わした大プリニウスはテオプラストスに言及してはいるものの、テオプラストに比べると慎重さに欠け、独善的な想像の中で動物中心主義も顔を出している。テオプラストスは植物が人間のため(食物や医薬として)ではなく、それ自体のために存在しているとしたが、大プリニウスはすべては理性的な人間のために存在すると考え、農業、医薬に重点を置いた。アリストテレスの影響がかなり強かったことが窺える。そして、15世紀に及ぶまで大プリニウスのような考えが植物学を支配する暗黒時代に入ったとされている。

19世紀に入り、例えばチャールズ・ダーウィンは息子のフランシスとともに植物について研究し、根の先端には感受性と運動を指示する力があり、それが丁度"下等"動物の脳のように振る舞っていると指摘している("the root-brain hypothesis")。これも植物を動物との比較で見ているが、感覚や神経という概念を植物に導入し、「生物の共通祖先」という考え方と併せ、動物との間の垣根を低くした印象がある。さらに20世紀に入ると、インド人のポリマス、ジャガディッシュ・チャンドラ・ボースは自作の測定器を用いて、刺激に対する植物の反応を研究。刺激と反応という点では動物との差はなく、植物も感覚、知性、記憶を持っているという考えを提唱するに至った。

最近では植物を環境に対する感受性と適応性を持つ情報処理システム、知の蓄積システムとして見る「植物神経生物学」という流れも生まれているようだが、これに対する批判も強いようだ。知性とか記憶というような人間にも備わっている機能の場合、われわれの基準で定義してしまうが、例えば、ダーウィンは生存に必要なことをどれだけ有効にできるのかということに基づいて知性を考えている。もしこの定義を受け入れれば、すべての生物には知性が備わっていることになる。定義、すなわち枠組み次第で見え方が変わってくる。難しい問題がそこにある。

最後に、植物を離れ、広くエコロジーに対するものの見方、特に宗教的な思想との関連について触れた。ここではキリスト教に見られる人間中心主義(人間が自然の上にある)、あるいは反・汎神論(自然に神が宿るなどということはない)が環境破壊に結びついたのではないかという指摘を紹介。ただ、キリスト教の枠内にあって、動物にも魂があるとして、鳥などの動物に説教をしたという言い伝えがあるアッシジのフランチェスコ(1182-1226)のような人物も現れ、1980年にはヨハネ・パウロ2世によって「エコロジーの聖人」に指定されている。特に2日目。人間中心主義との関連では多くの議論があった。人間中心主義でなければ人間の生存は覚束ない、むしろ人間中心主義でありながら環境との調和を保つ思想が求められているのではないか、菜食主義者は植物をどのように見ているのか、「植物状態」という言葉に問題はないのか、環境破壊を宗教とだけ結びつけることには無理があるのではないか、、などなど。いずれにせよ、人間と環境との関係はどうあるべきなのかについての新しい思想が求められているように見える。




参加者からのコメント

● 本日は、急な参加にもかかわらず 温かくご対応くださりありがとうございました。また、早速貴重な資料をお送りくださり感謝申し上げます。哲学の観点から植物を見るということ、初めての経験で、実のある、驚きばかりの貴重な時間を過ごさせていただきました。これを機会に、哲学と科学について想いを新たにしてみたいと思いました。また、機会があれば矢倉先生のお話しを伺いたいと存じます。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

● 本日(木曜)は結局残念ながら出席できず申し訳ありませんでした。仕事が急に立て込んできまして今回は断念致しました。今回のテーマのお話や、来年出版されるという矢倉さんの翻訳書のお話も伺いたかったのですが(最近、一般向けの科学書籍、特に仏語原書の、出版翻訳の分野にも興味が出てきたこともありまして…)。金曜の回は、本編への出席は難しいのですが、懇親会の方には伺えるかとも思います。それでは、もしかしたら金曜の夜にお目にかかります。

● 昨日はサイファイ・カフェSHEに参加させていただき有難うございます。以下に会の感想を述べます。冒頭のレクチャーでは、植物と人間がどのように係わってきたかをプラトンの時代から紐解いていき、外界に対する人間の見方を学びました。人間中心主義にたてば植物は人間の支配下に属する存在であり、それらに理性や知性はなく受動的な存在である。このような二元論的な考え方が現在の環境破壊に通じている、という仮説は興味深かったです。これに対し、植物を能動的な存在であると定義したテオプラストスや、すべての創造物間の民主主義を唱えたアッシジのフランチェスコによって、植物に対する係わり方について新たな視点がもたらされ、現在は植物にとっての神経や免疫についての研究をする学問まで存在するという話を聞き、非常に長い時間を掛けてパラダイムシフトがなされたのだと感じます。会のあとの懇親会では,皆様のお話を聞くうちに科学の形而上学化の重要性についての認識が深まり、それもまた大変実りある時間となりました。またの機会を心待ちにしております。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。   

● 昨日は第10回サイファイ・カフェSHEに参加させていただきありがとうございました。初参加の方も矢倉さんのプレゼンテーションにいたく刺激を受けて、感激していました!私にとっては「科学の形而上学化」のスライドで、矢倉さんのお考えについての理解が深まりました。また、本題から逸れたポイントではありますが、倫理の語源についての解説が「目から鱗」でした。なお、会場についての感想を申しますと、私としては前回までの恵比寿のカルフールの方が居心地が良かったように思います。理由は、部屋の広さです。昨日の会場はちょっと狭くて圧迫感がありました。例えば、恵比寿の会議室で机の配置を工夫して対面する人の距離を縮める、といった方法もあるのではないかと思った次第です。もう少し大胆に、人が正対しないよう机を三角形に配置するのも面白いかなと思ったりします。

● 昨日は、サイファイ・カフェにてありがとうございました。いつも丁寧なご案内とその後のまとめをお送り下さり本当に感謝致します。今回も、楽しく、有意義な時間をすごさせて頂きました。わたしのような素人がいつも自分の考えを述べさせて頂く機会は現在全く無く、久しぶりに何かコレステロールが取り除かれ、詰まった血管の流れがスムーズなったように感じました。すっきりした感じです・・・今はフェイスブックはやってはいますが、嘗てのブログのように自由に自分を表現するということは無くなりましたので自分の意見を述べる機会がほとんど無くなりました。そんな中、このような会は珍しいと思います。昨日そちらでご一緒した女性の方も、その自由度のありかたに感激していらっしゃったみたいです。

わたしは、若いころは植物には大して関心は無かったのですが、40代の初めごろ、「東南アジアの文化論」というのを大学の聴講生として学んだのです。その時いくつか学んだ中に、物理学の「自然システムエネルギー」という学科もわたしの人生で大変大きなものでした。学問としての科学的な学びと、日常の小さな発見から植物には大いなる関心が出てきました。昨日話した、義母と夫が亡くなった直後、生垣の珊瑚樹が枯れたことには、本当に驚かされたのです。全くの偶然ではないことは確信しています。

実は、人間と樹木はパートナーシップを結ぶ関係にあることを研究者が本に書いています。人間と樹木は切っても切り離せない関係です。また、鳥や虫、動物もそうですよね。知性という点に置いては、人間にも差があるように、一概にはどっちらだとは言えませんが、動かない樹は、その場所での知性の樹です。人間の寿命を遥かに超えて、300年1000年3000年と生き続け、周りの環境を波動で感じ、音を聴いて感じ続けているのだと思えるのです。眼が植物に在るのかと言えば、まだそれは発見されていませんが、何か眼に価するものもあるのではないか?とわたしは考えています。それでは、長々となりました。フランスでまたよい研究が出来ますようにお祈りしています。それから、お体の方ご自愛ください。また、来年も楽しみにしております。

● 今回も会に参加させていただき誠にありがとうございました。個人的にいつもより親しみやすい(と言っては語弊があるかもしれませんが)テーマで、明日日中、散歩に出て立ち止まって一度じっくりと木々を眺めてみようと思いました。 穢れ(気枯れ)の点にとどまらず,アニミズムの観点から神道と植物についてもう少し発言できたかもしれないなとも感じておりますが、これまでよりも自分なりの感想を多く発言できたように感じます。会場に関しましては、社が近いということもあり、電車が止まるリスクが低い分たいへん助かりました。また今回の参加者くらいまでならあのくらいの広さが議論を交わすにはちょうど良いのかなとも感じました。また次回以降、ぜひお誘いいただければ幸甚です。今後とも、なにとぞよろしくお願い申し上げます。どうぞお気をつけて渡仏なさってください。取り急ぎ、お礼までにて失礼いたします。

● 昨日は長い時間にわたり自由で闊達なディスカッションをありがとうございました。会を主催する矢倉先生のフラットな姿勢が議論の展開を後押ししているのだと思います。資料をお送りいただきありがとうございます。   

昨日のテーマは「植物」でしたが、私は、比較的、植物に接する機会が多かったためか、植物やその周辺環境のことが無意識のうちに自分に取り込まれているようで、議論の最中に、植物に対する自分の受け止め方が皆さまとかなり違っていることに気がつきました。宇宙飛行士が宇宙を経験すると少し物の見方が変わることがあると聞きますが、私の植物の経験もこれと似たようなことであったかもしれません。頭で考えることと実感することの違いとでもいうのでしょうか。スライドのジョン・ロックの経験論にある、「観念は外界から得た感覚(sensations)と心の動きの内省の観察である内省(reflections)により作られる経験が白板に書きこまれるようにして生まれる」という言葉がこれに近いという印象です。個々の経験の違いは、議論の展開につながるのでしょうね。   

私の植物への考えは、アリストテレス以来の西欧思想における二元論的な捉え方ではありません。外界から得た感覚と科学的な情報とから、植物をinclusiveなものとする考え方です。考え方が次第に変化したという方が正確ですが。植物のもつ環境への適合性や自律性そして種保存のための合理性など、植物に接するとこれらの事実がよく実感されます。植物が意志や心を持つかは、昨日の議論のように、定義次第ということになりますが、私は植物が心を持つとまで拡張的に捉えることはできません。植物は、光合成により生きるための養分(炭水化物)を自分で作り出すことができる地球上で唯一の生命体であること、そしてそれが食物連鎖の源を担っていること、地球の物質(炭素、酸素、窒素、硫黄など)を循環させ、ある定常状態の維持に寄与していることなどの、科学的に認識された事実からも、二元論的な取り扱いが難しいように思います。 

植物の死という話題もありました。種子の保存のためにスヴァールバル島(ノルウェー領)に大規模な世界種子貯蔵庫が建設され、地球規模で種子の保存をすすめるような意識の変化もみられます。種子の遺伝子編集への利用もすすめられています。工業的には植物の広い応用がすすめられていて、スマートセルインダストリーという概念も生じています。科学による自然へのアプローチは、地球の有限性への意識や生物間の相関関係の捉え方の変化へと繋がっているように思えます。スライドにあった言葉もいまの時代ならば、「植物は人間以外の最も豊富な生物であった」は「植物は人間を含めた豊富な生物であった」と言った方がよいと思いました。科学は、常に人間の意識に影響を及ぼしていて、「科学の哲学」は複雑なテーマであることを再認識した次第です。

● 会のまとめに「定義、すなわち枠組み次第で見え方が変わってくる。難しい問題がそこにある」とあります。私は「科学の哲学」の問題点がここにあるのではないかと思います。科学は実証を哲学は思考を基に定義をします。科学の定義は常に仮説であり、新しい事実により定義が変更されます。哲学は必ずしも実証を求めない思考の世界であるとすると、科学の定義の変化に対して哲学はどのような対応をしてきたか、していくのかということが、私の思考の基底にいつも存在しています。

● 「歴史的に植物をどのようにとらえてきたのか」という今回の視点はとても面白かったです。多様性、というキーワードが昨今のものの見方考え方の枠組みには必出ですが、あらためて理性を重視し人間を一位に置く人間観とは異なる視点が、構築されつつあるのだな、と思いました。とはいうものの、人間中心の社会は人間が絶滅しない限り、今後も続きそうですし、有用性を中心に植物をとらえる視点も消えてなくなりはしないでしょうね。実家のある街では、30年以上前に桜を植樹して、見事に美しい並木ができましたが、今度は毛虫が家に侵入して困るという苦情のもと、すべての樹木の片側の枝をバッサリと切り落とすというものすごいことをやっておりました。なので半身並木になってます。帰省のたびに人間の自己中心を見る思いです。  

本当の意味で植物をリスペクトして人が奢りたかぶらずに生きる、というのはまさに科学を哲学して、今度は人間の生き方を哲学する、という二段階の活動をしなければ到達不可能ですね。日本は唯心的なものの見方をする割には自然破壊をしている、というのは、明治維新以来の西洋追随の精神構造と、あとは経済性追求だと思います。儲けたいし食べていかねばならぬとなれば、後先考えずに植物を根こそぎ倒して社会を作り替えようとするのは、古今東西の普遍的な現象です。

臨済宗では子弟の間で問答が行われ、その過程で悟りにいたると読みかじったのですが、その公案の一題に「米を食べることは米の命を殺すことになるのではないか」というような問いがあったような記憶があります。人間を第一位に置く視点から離れたところから出る問いではないでしょうか。植物の環境への適応とか、生命存続のための戦略などは、まるで植物に意思があるかのように思えてしまいます。非科学的な発言とは重々承知の上ですが、それが今世紀、次世紀の「新しい」視点だったりして。矢倉先生の翻訳された『新しい微生物学』、文系かつ専門外のわたくしもチャレンジしてみます! 待ち遠しいです!

● 先週末は楽しいカフェをありがとうございました。私もまだ“plant blindness”の状態にありますので、先生が退職の2年ほど前からお昼の散策を始められたというエピソードに興味を惹かれました。科学から哲学への大転換はある日突然の出来事ではなく、このような無意識のエピソードの積み重ねのうちに、静かに機が熟しておられたのではなかろうかと想像します。あるいは、「植物」を見ることそれ自体にも、人間の先入観や価値観を揺さぶる力があるのかもしれません。そのほかにも、「多くの科学者は哲学を視野に入れていないが、哲学の側は常に科学を見ている」、「具体的な対象のある哲学は、頭の使い方が通常の科学とそう変わらない。むしろ、対象のない哲学に興味がある」、「行く先々のすべての土地が、ひと続きの面で繋がっている感覚がある」などの言葉が心に残りました。以上、今回は少し時間が伸びたこともあり、皆様とゆっくりディスカッションできた印象があります。ありがとうございました。

● この度も有意義なカフェの設営、有り難うございました。懇親会も参加したかったのですが、あの時間だと帰り着くのが0時過ぎになるので断念しました。懇親会を夕食時間帯の18時半頃から開催する方法として、土日の16時半頃から開催するのも一方法ではと思います。会場については、恵比須より近くなったのですが、店が狭く分煙不十分なので、ルノアールでも店が大きい(例えば八重洲等)にしてもらえればと思います。カフェの話題の内容が有意義でしたので、別添のメモの1~4ページにまとめてみました。先生の話題提供は2項目に、参加者とのディスカッションは5項目に整理してみました。5~8ページは私の考察を、内容を統一的にまとめるより、とにかく思い付くことと関連する催し等を紙上ブレーンストーミング形式で書き出しました。9ページは、慶應MCCのゲーテの講座を受講する際、記載した受講動機を抜粋しました。稲のバイオミネラルの関係では、メモの8ページに記載しました。NHK「ミクロワールド」:「植物の宝石 プラントオパール」の映像が印象的です。今後とも先生の研究・思索・啓発活動の一層のご発展を祈念申上げます。

(矢倉注)白石裕隆氏のメモはこちらになります。メモの作成ありがとうございました。

サイファイ・カフェSHEでのご講演、ありがとうございます。矢倉先生のご講演「植物という存在を考える」は、深い見識と豊富な経験をもとに俯瞰的に哲学について整理・分析され、創造的に議論が展開され、現代での哲学の意義を再認識する示唆があり、大いに刺激になりました。昔、生物物理を齧ったこともあるので、遺伝子・感覚・発生・意識に大変興味があり、特に進化に関心があり、脳の機能が作られていったかとか、不思議に思っています。40年前、物理的に生物を開放系の熱力学としてみて、動的平衡で成り立ている話を思い出していて、熱力学の analogyで生物の進化を——第0法則 遺伝子の存在、第1法則 突然変異、第2法則 自然淘汰(適応)——と教わったような記憶がありますので、幹細胞からいろいろな機能の細胞を発生して、多様性と統制とがbalanceをとって、体の中で自然淘汰が生じてapoptosisでhomeostasisに達しているような気分になっています。科学Communicationや outreachにも大変興味があり、いろいろなサイエンスカフェ・セミナー・講演会等によく参加しております。小中学校の出張授業(http://www.tokyo-gas.co.jp/kids/teacher/teacher2.html)もしますが、法政大学からサイエンス・カフェ(http://www.hosei.ac.jp/NEWS/event/120510.html)の依頼もあり、燃料電池の話をしました。矢倉先生のご研究・ご活動は、生命の本質に迫ることにもなりますので、今後ともよろしくお願い致します。



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2016年11月17日(木)








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(2016.11.19 まとめ)





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