第8回サイファイ・カフェ SHE は以下の要領で開催されました
お陰様で、内容の濃い会になりました
年末のお忙しい中、参加された皆様に感謝いたします
日時: 2014年11月27日(木)、28日(金)
18:20~20:00
テーマ: 「インテリジェント・デザインを哲学する」
定員: 約15名(両日とも同じ内容です)
会場: カルフール C 会議室
Carrefour
この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いてきました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出しました。この 試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは科学の成果だけではな く、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点に注目し、新しい視点を模索します。このような営みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指しています。今回は、インテリジェント・デザイン(ID)を取り上げます。生物の在り様を説明する考え方として、ダーウィンによる変異と自然選択による漸進的な進化が広く受容されています。この説では、生命は行く先が決まっていないopen-endedな過程を歩むと想定しています。また、方法論としては物理還元主義が絶対的な力を持っています。しかし、これらの思想では生命や意識の出現などは説明できないとして、宇宙や生命は「知性ある原因(デザイナー)」による方向性を持った過程だと唱えるIDが現れました。そこには科学が排除したはずの目的論(teleology)が顔を出し、正統派の科学者の批判の対象になっています。一方、この考え方に共感を示す哲学者も現れています。生物の存在を考える上で、主流の科学から排除されているIDには聞くべき点は何もないのでしょうか。今回も講師がIDの骨子を30分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。
次回は来年の夏以降を予定しています
ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします
(2014年11月29日)
今回のまとめ
今回はインテリジェント・デザイン(以下、ID)をテーマとしました。わたしが科学の中にいる時にはIDを意識したことはなく、現代科学の方法論の中で現実の問題解決に頭を奪われていました。IDの みならず、哲学も科学の枠外にあり、必要のないものという認識しか持っていませんでした。しかし、科学から離れ、暇な時間ができるとこれまでの縛りがない 状態でものを観ることができるようになります。科学の外にあると思われているものを見直すことにより、科学の特徴がよりよく見えてくることもあるのではな いかと考え、今回はIDを取り上げてみました。
この世界、そしてわれわれはどのように生まれ、どのようにして今の姿になったのか。これはわれわれが抱く根源的な疑問の一つになると思います。現代の科学、生物学は、ダーウィンの進化論とメンデルの遺伝学を統合したネオダーウィニズム(neo-Darwinism)をその哲学として採用してきました。最初に遺伝子の変異があり、環境の制約に適応して生存、繁殖できる変異が自然選択されるとするもので、偶然に支配され、最終的にどのような形になるのかわからない“open-ended”な過程になります。そこには意図も目的もなく、科学の中からデザイナーや目的論を排除します。
IDは、 偶然に因るとするネオダーウィニズムでは説明できない複雑さを持つ形や過程が存在することを指摘し、その説明のために「知性ある原因」の関与を想定しま す。宇宙に関する科学の成果は認めますが、偶然の関与は認めません。哲学者の中にもニューヨーク大学のトマス・ネーゲル氏のように、IDに共感を示す人が現れています。彼は、生命が偶然の結果で生まれるのか、万が一生まれたとしてネオダーウィニズムで意識の出現を説明できるのかと問い、遺伝子、転写、翻訳などが偶然の結果とは想像できないとします。科学の唯物論とその文化、道徳、政治に対する破壊的な影響を打ち砕くこと、自然の有神論的理解を促すことを目的としたWedge Strategyと呼ばれる政治運動をシアトルにある Discovery Institute を中心に展開しています(Wedge Document)。一方で、IDはトロイの木馬で、科学の仮面を被った宗教だとする見方があり、現代科学でも問題にされることはないようです。これらの背景を基に、ネオダーウィニズムの哲学と方法論、生命の誕生に関わる過程と蓋然性、デザイナーの必要性、目的論の意味と宗教との関連などの多様なテーマについて議論が進みました。
参加された皆様からのコメント
● おはようございます。 スライドをお送りくださり誠にありがとうございます。昨夜はID論ということで、神/宗教と哲学のお話かなと思っておりましたが、目的論や還元主義の議論となり、見事に予想が裏切られ(!?)大変面白く感じました。また、数学・物理学・工学を背景に持つ参加者の方々のお話には、意外あるいは納得など感心致しました。次回も楽しみにしております。
● おはようございます。昨夜のサイファイ・カフェに参加させていただきまして、本当にありがとうございました。遅くなった上、お食事会も失礼させていただいてしまい、申し訳ございません。IDの件などとくに印象深く、多くを学ばせていただきました。また是非どうぞよろしくお願い申し上げます。
● 昨夜は科学者の皆様が日々様々な制約の元での思考に勤しんでおられる様子が窺われ興味がつきませんでした。ただ、論理に緻密さが要求されることから、多 少窮屈さを感じたことも否めません。哲学も科学もおそらく死(の意味)に対しては無力とはいいませんが、非力なのでしょう。生命化学、遺伝子化学の分野に このような意味合いから関心が高まっているのでしょうか。この永遠のテーマに対する日々の営みとは? 宗教とは? 好奇心だけは衰えることがありません。また、お会いしましょう。
● 昨晩もありがとうございました。最前線の科学者の方の発言の中で伺った、科学者は理論の説明のなかでしばしば比喩的に目的論的表現を使う、ということが 非常に示唆的であると感じました。建前として科学に目的論を持ち込むことは許されないけれども、現実的なメソッドとして目的論なしに、その営みを続けるこ とはできない。この矛盾にも、IDの、完全に無視することのできないある種の魅力とつながるところがあるのかもしれません。
● 昨日はどうもありがとうございました。一人一人の発言の中に必ず次の思考につながるヒントがあり、それに呼応する形で次々と話がつながっていく様子に感銘を受けました。ところで、一夜明けて考えてみたのですが、昨日の話の展開は、純粋に行く先がきまっていないopen-endedなものだったのでしょうか?それとも、数年前にこの会を始められた矢倉先生のデザインが多少なりとも関与していたのでしょうか?やはり一筋縄ではいかない問題に思えてきました。また、ゆっくり考えてみたいと思います。
● 今回は専門的というかアカデミックな議論の場に参加させてもらい、どうも有り難うございました。いろいろな分野の方とフリーにディスカッションするというのは楽しいですね。以下に感想・コメントを書きます。
私はこのようなセミナーに参加するのは初めてで、すごく新鮮な気持ちで議論することができました。Intelligent Designという概念はなじみがなかったのですが、一見「神」の存在の言い換えのような気がしました。しかしIDの 研究者はそれを避けているとのこと、宗教とは一線を画しているのですね。あのアインシュタインですら晩年には神の(ような)存在を信じていたようです。今 の生物の存在がなぜあるのか、違う生物の存在でなく、現実にある生物がもともとの原子分子の組み合わせでなぜ今の形なのか、統計的に非常に低い確率のがな ぜあるのか、確かに不思議かも知れません。
私の発言の中で不足していた点ですが、膨大な可能性のなかで,ある組み合わせが実現するのはそれが最もエネルギーの低い状態だからですね。日常的な言葉で は、そのような力が働くからです。例えば、リンゴが地面に落ちるのは万有引力ですが、言葉を言い換えれば(位置)エネルギーの低い状態を求めて移動してい ると言えるのです。原子分子の組み合わせでDNAができ、その並びが生物の複製情報を担っているの も、それがその温度・圧力で最も低い(自由)エネルギー状態を求めて組み合わさるからと見ることができます。多体の系なので計算は難しいですが、原理的に 考えられることです。それがなぜ「生命」としての特質を持った構造になったのかはわからないところですが、単に確率の低いある状態が、何らかの意志の元で 実現したと見なくて良いかと思います。エネルギーの概念上からの必然性があるはずですね。IDの詳しい考察を見たわけ出ないので的外れかも知れませんが、単純にはこのような見方ができるように思いますがどうでしょうか。これと一寸違う観点ですが,自然界の法則がそれを発見した人間の創造力によるものだ、という議論が科学教育の学会で大手を振っていた時代がありました。米国 を中心に、それが日本の文部科学省の役人を感化させ、小学校の理科の指導要領の解説書に明文化されました。この「解説書」は単なる参考文献ではなく授業の 基本となるのが現実です。これに気のついた物理学者が公に反論していったのですが、次の指導要領までの10年間修正されずにいました。米国では「ソーカル事件」というのが有名で、その主張が主流の学会誌にその主張にそった議論の論文を投稿し掲載されました。ところがそれはダミーの論文で、それを載せた学会を非難する論文を別の研究雑誌に載せました。
● インテリジェント・デザイン論の目的(すなわち、科学の唯物論的文化・道徳・政治への破壊的影響を打ち砕く)、 に関しては、このような発想が出てくることもわからなくはない、と思いました。科学技術の進展は、何から何まで知りつくす段階をめざし、とどまるところが なく、その良し悪し、限度を設定しない発展は、逆に人を漠然とした不安にさせることもあるのではないでしょうか。よくよく読めば、随分強い言葉を使ってい るので、ID論に寄って立つ人々は、現代という社会にかなりの危機感を持っているのだなとも思いま した。仏教にも宇宙論がありながら、小宇宙としての医学への進路はとるけれど、自然を対象とする科学への道筋を取らなかったのはなぜだろうか、と興味が湧 きました。「人間は全くの無意味・無根拠にも耐えられない」というご意見にも同感です。だからこそ、その人間が悪しきデザイナーにならないようにするため には、やはり哲学が必須なのだと実感しました。
● 人間から見た世界は、全て意味ある世界である。意味がなければ人間は世界を構築できない動物である。言い換えれば人間の認識は全て意味の賦与を介して成 立しているといえる。統合失調症という病気を考えてみる。この病気の本質は、ある物事に「ふさわしい」意味を賦与できないということにある。したがって、 電波や他人の考えと称する観念が自分に流れ込んでくる、あるいは論理的にはあり得ない感覚を「体験」してしまう。これはビンスワンガーやブランケンブルク の考え方であるが、意味のない世界、または意味を付加することが困難なことが、人間の存在自体を極めて不安定にすることは、十分理解できるであろう。
「わたし」がここにいることが何の理由も無く、何の意味も無いものだという考えに人間は耐えることが出来ないため、拒否してしまう。拒否することができないほ ど現実の重みがあれば、人間としての存在が崩壊してしまう。社会学の始祖であるデュルケームは、「自殺論」のなかで、社会構造の激変により、人間の意味の 認識基盤が破壊されると、自己保存機能が失われる(アノミー)ことを明確に論証した。そして、それは個人の意志の強さや経済状態等とは関係しない。
ネオダーウィニズムは、シンプルで美しいが我々の存在の意味を大きくゆるがすものである。IDは その意味の不在に対する不安から生じたとも言える。人間は論理的で、単純で、数学的美があるものだけをよりどころとして生きていけないのだと。そもそもネ オダーウィニズムの説く変異速度なるものは、現在の視点からしかわからない。古生代の核酸情報が不明な現時点では、古生物の変異率はまったくわからない。 変異と表現型発現閾値との相関も不明である。さらには、地球環境を定数とみなしがちであるが、生物活動その他によって影響を受ける内部変数である。
地球における進化過程は再現不可能であるため、総合説(ネオダーウィニズム)は、生命進化に関して現時点で矛盾がないという以上の認識は得られない。従って、様々な反論や主張が可能であるが、IDは知的存在の介入の根拠を何ら示さないにも関わらず、一定の共感を得ている。その根底には、神なきこの現代に人間として生きる意味を与えよ、との悲痛な祈りが数多く存在することは認識しなければならないだろう。
仏教には、「毒矢の喩え」という一節がある。世界が常住であるか、無限であるか、死後に魂は存在するか、と言った問題を仏陀は戯論とみなして説かない。その ような問題は修行には必要ないからである。では何を説くか。世界にある全ての存在が無常であると説く。全ての精神の働きは無常であると説く。それを正しく 受け止めていかに生きていくかである。唐の盤山宝積禅師は「向上一路、千聖不傳」という言葉を残した。人間が生きるということはただ向上であるが、徃聖の 言葉が数多くあっても、それらの知識だけから成し遂げられる訳ではなく、自ら実践して会得しなければならないのである。
2014年11月27日(木)
2014年11月28日(金)
(2014年11月30日)
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