22 免疫再考(4)

 


第22回サイファイカフェSHE

ポスター


テーマ: シリーズ『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)

免疫の形而上学


日 時: 2025年11月14日(金)18:00 ~20:30

会 場:恵比寿カルフール B会議室

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1


参加費: 一般 1,500円、学生 500円(コーヒー / 紅茶が付きます)


カフェの内容 


免疫から哲学としての科学へ』を読むシリーズの最終回は、第5章「免疫の形而上学」と第6章「新しい生の哲学に向けて」を読む予定です。これまでの科学的知見を受けて、少し自由に思索を羽ばたかせることになると思います。免疫について興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。以下のテクストをお読みいただいてから参加されると理解が深まると思います。

テクスト: 矢倉英隆『免疫から哲学としての科学へ』第5章、第6章(みすず書房、2023)

参加予定者には、あらかじめ資料をお送りします。

参加を希望される方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。


会のまとめ




このシリーズ最終回となる今回は4名(1名欠席)の参加を得て、免疫の本質に向かう試みについて熱のこもった議論があった。参加された皆様に感謝したい。

まず、第5章「免疫の形而上学」のエピグラフについて説明があった。本書においてエピグラフの占める位置には重要なものがあり、各章の内容の本質的な部分に触れる言葉を著者のこれまでの記憶の中から選んでいる。本章のエピグラフには、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)の『自然という概念』(1919)から次の言葉が選ばれている。

すべての自然哲学者の人生を貫く座右銘は、「単純さを求め、そしてそれを疑え」でなければならない。

原文ではこうなっている。

The guiding motto in the life of every natural philosopher should be, "Seek simplicity and distrust it.“

すべての自然を哲学する者は、まず単純さを求め、それからそれを疑わなければならない、と言っている。具体的には、どういうことを言っているのだろうか。それはこういうことではないかと考えている。自然は非常に複雑なので、最初は科学を使って単純化して理解しようとするが、自然の性質故それでは不十分なので、次にはそれを別の方法で見直さなければならないということを「疑え」という言葉に込めたのではないだろうか。そこに哲学の出番があるのである。ピエール・アドー(1922-2010)であれば、前者をプロメテウス的方法(科学)、後者をオルフェウス的方法(詩とか哲学など)と言うところではないかと思う。いずれにせよ、この章では科学が明らかにしたことについて別の視点から考え直そうとしている。そのやり方を本書では「科学の形而上学化」と言っている。

第4章までは、免疫システムと言われるものを持っているいろいろな生物における特徴を列挙するところから始め、そこに共通する要素を抽出するという方法で、科学が明らかにした免疫の本質的な性質を検討している。このやり方は、ソクラテスが倫理的性質の本質を取り出す際に使った方法と同じであり、その意味では古典的なやり方を採用していたことになる。

カール・ポパー(1902-1994)はこのような考え方を「方法論的本質主義」と呼び、学問の課題を隠されている本当の姿(本質)の発見に置くとしている。これに対する考え方は、普遍や範疇などは存在せず、あるのは言葉だけだとする「方法論的唯名論」と言われるもので、対象の真なる本性(本質)を見つけ出すことは課題としない。その代わり、対象がいろいろな状況下でどのように振舞うのかを記述し、そこに規則性を求めることになる。前者がエネルギーとは何かを問うのに対して、後者はエネルギーはどのように利用できるのかに興味を示すのもので、現代科学が用いている考え方と言ってもよいだろう。

ここで、形而上学化に進む前に、第4章までの科学的解析からどのようなことが明らかにされたのかをまとめておきたい。

1)免疫システムは細菌からヒトに至るまで遍在し、生存に不可欠である。

2)細菌のCRISPR-Casを免疫システムと規定したということは、この領域の人は免疫の一義的機能を外敵の排除に置いていることを示している。

3)免疫を担う構造やメカニズムには多様性があるにもかかわらず、免疫は ① 抗原刺激の受容、② 情報の統合、③ 適切な反応、④ 経験の記憶という4つの機能的要素を持っており、この4要素は神経系の認知を担う機能要素と重なる。

4)自己免疫という現象はすべての生物に組み込まれており、免疫システムを持つものの宿命に見えるが、それを避ける寛容メカニズムも存在している。このバランスの破綻が自己免疫病を生み出している。

5)多細胞生物において、免疫はオーガニズム全体で担われており、その中に精神や神経もある場合には、それらを含めた他のシステムを制御し、他のシステムから制御されている。免疫システムというものの境界が生体と同じ範囲にまで広がっていることを示す結果で、このシステムをどのように捉えるのかが問われる状態になっている。

これらの結果を哲学における蓄積に照らしたところ、スピノザ(1632-1677)の「コナトゥス」(conatus)が浮かび上がってきた。コナトゥスはラテン語の動詞 conari(試みる、努力する)の名詞形で、努力、試み、傾向を意味している。エチカ』(1677)の 第3部、定理6には「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(以下、畠中尚志訳)とあり、すべてのものは自己の存在を持続させようと努める力を持っているとしている。そして、第3部、定理6には「この努力は、その物の現実的本質にほかならない」と書かれてある。

コナトゥスはすべての存在に適用されるが、生物におけるコナトゥスには、生物の存在を維持しようと努力する能力とその努力を意識する能力が付与されている。具体的には、精神だけに関係するコナトゥスは意志(voluntas)、精神と身体に関係するコナトゥスは衝動(appetitus)、衝動を意識しているコナトゥスは欲望(cupiditas)とされる(第3部、定理9、備考)。この分類に照らすと、免疫は身体と精神に関係し、存在にとって本質的な活動なので、衝動(アぺティトゥス)に対応しているように見える。

免疫にとって記憶は非常に重要な要素であるが、スピノザは記憶をどのように捉えていたのだろうか。『エチカ』第2部の備考にその定義がある。非常に難解ではあるが、読んでみたい。

このことから我々は、記憶(メモリア)の何たるかを明確に理解する。すなわちそれは、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状(アフェクティオ)[刺激状態] の秩序および連結に相応して生ずる。

この定義は、次のように読むことができないだろうか。人間身体は外部の物と相互作用しているが、その結果身体に変化が起こり(身体の変状)、それが精神の側では観念を生むことになる。その観念には、外部に在る物の本性も含まれるとあるが、この場合の本性は本質というよりは、外部の物と作用した際に刻まれた痕跡と理解した方がよいのではないだろうか。そして、精神の中で観念が結びつく秩序は、身体が外界から受ける秩序と対応しているという。




この定義では、身体の変化が精神の中に観念を生じさせ、それがある秩序で連結しているというようなことを言っている。免疫を身体だけに留める視座しか持ち合わせない場合には、これが免疫記憶とどのような関連があるのか見えてこないだろう。最近の研究成果は、これが荒唐無稽ではないことを示している。上図(前回のSHEで提示)にあるように、身体の末梢部分で腸炎や腹膜炎を起こしたマウスがいる。まず、このマウスは神経を通じて脳の島皮質という部分のニューロンを活性化していたという。つまり、外界の物(微生物)との相互作用が神経系に痕跡を刻んでいることを示している。それだけではなく、炎症が収まった後にニューロンを刺激すると末梢に炎症を引き起こしたというのである。スピノザの定義を免疫記憶と重ね合わせると、20世紀前半にセルゲイ・メタルニコフ(1870-1946)が「動物を免疫することは、細部の感受性をコントロールしている神経の中枢を免疫することである」と言ったことと驚くほど重なっている。

付言すれば、外部刺激の「連結」と「秩序」が記憶のそれと「相応」しているというスピノザの言葉を読んで想起されたのが、細菌の免疫システムであるCRISPR-Casのメカニズムである。このシステムでは、外から入ってきたファージ遺伝子の断片が入ってきた順番に秩序正しくゲノムの中に取り込まれる(痕跡を刻む)のである。免疫システムの原型(そこには免疫の本質が現れている可能性が高いのだが)に見られる記憶のメカニズムもスピノザの定義とよく適合している。

次に、スピノザの記憶が自己保存(コナトゥス)にどのように関与しているのかが問題になる。スピノザによれば、人間精神は自己の能力を促進するものを思い出し、阻害する場合にはそれを排除するものを想起するという。この両者を見極めているのが記憶であり、それが自己維持に不可欠であるとすれば、免疫記憶と矛盾しないだろう。

ここで、スピノザがコナトゥスの中に道徳的側面を見ていたことについて触れておきたい。『エチカ』第4部、定理39に次の言葉がある。

人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。

人間身体の諸部分が有する運動と静止の割合が維持されるようにするということは、身体の形相を維持することになるので善であり、両者の割合を異なったものにするものは身体の破壊につながるので悪であるとした。バランスが保たれている状態を正常、それが崩れた状態を病理とすれば、コナトゥスの中に生物学的極性(正常 vs. 病理)の制御という機能があり、さらにその中に道徳的規範性を見ていると言えるのではないだろうか。

そのように考え、ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)の規範性についての分析を検討することにした。カンギレムの規範性(normativité)は、規範に準拠しているという受動的な状態だけではなく、時には規範を変え、新しい規範を作り出す創造性が求められる能力を含む点で特徴的である。また、統計によって決められる正常 vs. 病理を退けた。病は規範性の欠如ではなく、新しい規範を作る絶好の機会であり、人間の内部で自然が行う「努力」であるとした。この努力こそ、まさにコナトゥスであり、免疫であると言ってよいだろう。

ここまでをまとめると、生命の本質に免疫があり、免疫の本質には生物学的極性を制御する(倫理的)規範性を伴う心的性質が包摂される、となる。ここで倫理性と入れたのは、免疫が人間の倫理的判断を担っているという意味ではなく、免疫、さらに言えば生命そのものの中に倫理性があるという意味で、それはスピノザを援用したことにより生まれた考えになる。この見方を敷衍すれば、これまでは人間が生命を対象として見て判断していたが、これからは生命自体が持つ倫理性に耳を傾けなければならないことを意味している。

ところで、科学の現場の問題を解決するわけではないにもかかわらず、著者が一貫して唱えている科学の形而上学化」にどのような意味があるのかについて考えてみたい。最終的には、我々の自然に対する認識を豊かにする可能性がある科学と文化の架橋(知の再統合と言ってもよい)に意義を見出すことができるかどうかにかかっているのではないだろうか。科学の日々の営みの中で解決策を求めるという、いわば実利的な観点に立つ場合には、そこに意義を認められないかもしれない。

科学は対象を限局して機能的に解析し、それを応用して医学の場合であれば治療法を開発しようとするが、全体的な意味は問わないし、問うことができない。そもそも免疫とは、というような問い方はしない。それに対して、形而上学化を試みることによって、科学では得られない「意味」に関する視座を得ることができる。今回の場合であれば、「コナトゥス」と関連づけることにより、例えば「生への意志」「自己保存に向かう力」というような視点から免疫を論じることができるようになり、文化的な広がりを与えることができる。それを善しとするか否かという(倫理的な)問題に帰っていくのだろう。

最後に、すべての生物には免疫システムという認知機能(心的要素)が存在するという知見は、汎心論(すべての存在には心的要素がある)の世界と通底するのではないかという視点から、汎心論の歴史的流れが紹介された。これについては、『免疫から哲学としての科学へ』の274~284ページを参照願いたい。汎心論を取り込むことにより、免疫が単なる防御システムではなく、自然のなかで働いている最古の知の形であることも見えてきた。これらのアイディアは、これから新しい生の哲学を紡ぎ出すうえで重要な役割を担うはずである。

これで、免疫から哲学としての科学へ』を読む4回シリーズが終わったことになる。これからも免疫をテーマした会を続けてほしいとの声も聞こえている。いろいろなサジェスチョンをいただければ幸いである。



(2025年11月24日)



参加者からのコメント


◉ CRSPR/Cas9を免疫に含めるかどうかについてやや議論が混乱した印象がありますが、結局、免疫の定義が不明確であったため起こったものと考えます。獲得免疫を念頭に置くのか、それとも自然免疫を含めた広い概念を指すのかによって、かなり議論が変わってきます。先生が免疫の本質的要素として抽出した、認識、情報統合、反応、記憶という4つの要素は獲得免疫系が持つ特徴で、教科書的には自然免疫では認識、即反応と考えられており、情報統合、記憶は無いというのが一般的な捉え方だと思います。もっとも最近、Neteaらは自然免疫にも記憶がある、と言っていますが、確かに一部では正しいのだと思いますが、必ずしも全ての自然免疫に記憶があるとは言えないと思います。従って、CRSPR/Cas9を含めた免疫系にこのような4要素がある、というのは言い過ぎでは無いでしょうか。また、このような要素が神経系と共通するから精神活動が神経系の独占物では無い、というのも説得力に欠けると思います。むしろ、IL-1, IL-6, IL-17, TNFなど多くのサイトカインが免疫系と神経系で共通に機能しており、精神活動に影響を及ぼすことが両者の近縁性を示しているのでは無いでしょうか。


◉ 免疫を起点とした科学の形而上学化に対する矢倉先生の思索の道程を、4回の議論で理解、咀嚼して、科学の形而上学化に対する適切なコメントを述べるだけの学識経験が私にはありませんので、感想という形でコメントさせていただきます。 

 本書では、矢倉先生が免疫の研究者としてそして哲学者として、膨大な免疫研究の情報を時系列に集積しそこに横たわる様々な課題を免疫のみならず哲学的な視点からそれらを見直し全体として繋ぎ合わせ、免疫の本質とは一体どにようなものであるかを考察されています。この方法はプラトンの本質主義に近いものであると述べておられます。そして、免疫はすべての生物に偏在し生命の維持に不可欠である。免疫はオーガニズム全体で担われていて、神経系や内分泌系などのシステムとも連動し生体を制御している。さらには免疫の本質には生物学的極性を制御する規範性(倫理性)を伴う心的性質をも包摂するものではないかと思考の輪を広げています。 この免疫という複雑科学を形而上学化するという試みは、その先にある「心」とは「生物・生命」とはそして「自然」とはなにかという問いへと繋ながる一里塚のように感じました。科学と社会の発展を漸進的に実践している矢倉先生の姿がそこには見られます。これからの科学者が持つべき姿勢、あるいは指標が表出しているように思われました。 

 本書で取り上げられた免疫とはなにかという問いは、本書が刊行される以前の12-SHEミニマルコグニション(2017.10.24)に遡ります。ここでは認識(認知、心性)を構成する最小要素(ミニマルコグニション)は何か、そして最初の認識能が進化のどのレベルで出現したかという問題がとりあげられています。私は免疫の知識もなくそして心的な活動とその進化をどのように考えるのかという意識もないままにこの議論に参加しました。内容をよく理解できなかったのですが直感的にミニマルコグニションは定義の問題ではないだろうかという意見を述べた記憶があります。 その後、本書が刊行され(2023.3.16)その合評会(17-SHE, 2023.11.17)が開かれてそこへも参加いたしました。免疫の専門家の方が半数参加されていたため、免疫研究そのものに対する議論は少なく主に科学の形而上学化の意義に議論が集中しました。私には免疫についても科学の形而上学化に対しても消化不良の感が残りましたので、他のカフェの懇親会の折に、矢倉先生に本書を題材にしたシリーズでの議論の場の設定を提案したところ矢倉先生はそれを実現してくださいました。 

 4回のシリーズを終えて、結局、免疫を理解する鍵であるミニマルコグニションをどう定義するかについては、私自身は免疫における4つの機能的要素(抗原刺激の需要、情報の統合、適切な反応、経験の記憶)を心的要素を含んだミニマルコグニションと定義していいのではないかと考えました。しかし、免疫の専門家の方からはその機能は生体防御であり、そこを科学的に明確な根拠なく心的要素を導入し踏み超えるべきではないという意見がありました。議論が偏ることなく展開されています。現時点では大多数の専門家が合意する定義は存在しないように見えます。これは、早急に結論を求めるべきでない、あるいは求められない問題だと思います。形而上学的な視点を持ち循環論に陥らずオープンエンドで科学の進展を待ちつつ定義すべき課題と思います。 

矢倉先生は、なぜこのような科学の形而上学化を行う必要があるかという問いに対しては、科学は局所を機能的に解析する方法であり全体的な意味を問わない、問うことができない。そして形而上学からは科学で得られない意味に関する視座を得ることができる。結局、我々の認識を豊かにする科学と文化の架橋(形而上学による知の再統合)に「意義」を見出せるかがカギであると述べておられます。 科学の形而上学化の必要性とその意義については、参加者全員が賛意を示されたと理解しています。 貴重な議論に参加させていただきありがとうございました。 

 

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