
第19回サイファイカフェSHEのお知らせ
テーマ: シリーズ『免疫から哲学としての科学へ』を読む
(1)免疫のメカニズムが見えてくるまで
日 時:2024年11月15日(金)18:00~20:30
会 場:恵比寿カルフール B会議室
https://www.ebisu-carrefour.com/
カフェの内容
昨秋の札幌と東京におけるサイファイカフェSHEで、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を合評しました。その後、合評だけでは免疫についての理解には至らなかったので、本の内容を解説する会を開いてはどうかという提案がありました。確かに、合評会では免疫について理解していることを前提に議論が展開していたと思います。この点を踏まえ、今回から4回の予定で、この本を読みながら免疫についての認識を新たにする機会を持つことにいたしました。 第1回は、免疫学の歴史を振り返り、現在の免疫理解が先人たちのどのような知的営みによってもたらされたのかについて検討します。以下のテクストを読んでから参加されると理解はより深まると思います。
テクスト: 矢倉英隆『免疫から哲学としての科学へ』第1章(みすず書房、2023)
なお、次回以降の予定は以下のようになっております
第2回: 2025年3月(第20回SHE) 自己を認識し、他者を受け容れる
第3回: 2025年7月(第21回SHE) 個体レベルと生物界レベルの免疫
第4回: 2025年11月(第22回SHE) 免疫の形而上学
免疫とは何なのかについて興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
参加費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒー / 紅茶が付きます)
参加希望者は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
会のまとめ
今回の会には最終的に7名の方(3名の欠席があった)が参加されたが、内4名はSHE初参加ということで、新鮮な空気が流れているように感じた。会での意見交換も活発かつ率直なもので、中には深いテーマも提起された。以下に、簡単なまとめを記しておきたい。
拙著『免疫から哲学としての科学へ』(みすず書房、2023)を全4回の予定で読むというプロジェクトの第1回目は、第1章「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」までを読み終えるというものであった。 どのようなやり方がよいのか、深くは考えていなかったが、第1章で紹介されている内容について、もう少し詳しい情報や問題点などをまとめたPPTを前もって参加予定者に配布することにした。そうすることにより、プロジェクターは使わず、本とその資料を目の前にして考えることができるようになるのではないかと考えたからである。ということで、本文を随時読みながら資料を説明し、区切りの良いところで意見交換をするという進め方になった。
まず、「はじめに」において展開されている免疫という現象に向き合う基本的な視点について説明した。これは免疫に限らず、あらゆる現象に当て嵌まる普遍的なやり方だとわたしが考えるようになった「科学の形而上学化(MOS)」と呼んでいるものである。詳細はリンク先を参照していただきたいが、要すれば、科学が生み出した成果だけでは自然のより深い理解には至らないという直観をもとにして、哲学、歴史、神学などの多様な領域の知を動員して科学の知について考え直すという行為のことである。それは「はじめに」のエピグラフとしたベルクソン(1859-1941)の次の言葉に象徴されている。 「生物学者に対して生命が思考によってしか理解されないと・・・予告することよりも大胆な新しいことがあろうか」
第1章は、免疫理論の発展史とも言えるもので、免疫学の本がしばしば現在までに明らかにされた事実からスタートするのに対して、その事実はどのような背景のもとに、どのような科学者が、どのように考えて確立されたのかというところに重点を置いている。この章だけでも1冊の本になるほどの豊かな内容を湛えているが、ここではそのエッセンスが描かれている。
まず、免疫(immunity)という言葉が、古代ローマにおける政治的義務や負担の免除を示す immunitas に由来するもので、そこに生物学的意味が加わり、広く認められるようになったのは19世紀になってエミール・リトレ(1801-1881)が編纂した『フランス語辞典』によるのではないかと指摘されている。COVID-19のパンデミックでは、感染が生み出す政治、経済、社会を巻き込んだ想像を超える影響を経験したが、immunity に含まれている原義が蘇ったように感じられた。
免疫学が確立される前の長い歴史において明らかにされたこととして、以下のことが紹介された。ペロポネソス戦争(431-404 BC)において発生したパンデミックをトゥキュディデス(c. 460-c. 400 BC)記録に残したが、そこには免疫学的な特異性と記憶を示唆する文章がある(本書 p.13)。現在までの研究により、免疫あるところには、少なくとも特異性と記憶が存在することは確認されている(本書第4章)。
18世紀に入ると、イギリスの外交官婦人であったメアリー・ウォートリー・モンタギュー(1689-1762)が、夫の赴任地コンスタンチノープルで軽症の天然痘患者の膿を非感染者に接種するという予防接種の方法を知り、イギリスに紹介している。そして、18世紀末にはエドワード・ジェンナー(1749-1823)が牛痘の膿による予防接種に成功。19世紀にはルイ・パスツール(1822-1895)による弱毒菌を用いた予防接種法を開発、ジェンナーに敬意を表し、vaccination(vaccaはラテン語で牛を意味する)と命名した。ただ、この時代の成果は経験的なもので、免疫のメカニズムが明らかにされたということではなかった。
免疫のメカニズムについての解析が始まるのは、19世紀末からである。免疫学の歴史を振り返ると、対立する説が提出された時、一方が正しく、他方は完全な間違いという場合と、その両方が部分的に正しいという場合があった。最初の対立は、免疫を担っているのは細胞なのか、あるいは液性因子(抗体)なのかということであった。解析の結果、細胞と抗体の両方が免疫を担っていることが明らかにされた。詳細は、本書 p.17-20 を参照していただきたい。
次に対立したのは、選択説と指令説である。この詳細は p.20-26 にある。最初の選択説は側鎖説と呼ばれ、1900年にパウル・エールリヒ(1854-1915)によって発表された。この説によれば、1個の細胞表面に何種類もの側鎖(現在の受容体)と呼ばれる分子が存在し、抗原はその中で対応する受容体を「選択」して結合することにより細胞が活性化し、最終的にはその受容体(抗体)を分泌する。しかし、その後の実験から、我々の免疫システムは無限に近い抗原に対する抗体を産生できることが明らかになり、それだけの数の抗体を細胞表面に準備することは不可能であることから、側鎖説は退けられることになった。
そこで登場したのが指令説(鋳型説)と呼ばれるもので、ライナス・ポーリング(1901-1994)のバージョンによれば、抗体は抗原の立体構造に対応するように形を変えるため、どのような抗原が入ってきても対応できるとされた。しかし、この説ではいくつかの免疫現象を説明できないことが明らかになった。第1に、抗原刺激を受ける前から自然抗体が存在していること、第2に、免疫記憶(2回目以降の抗原刺激でより速く強い反応が起こること)、第3に、親和性成熟(免疫反応の後期により親和性の高い抗体が見られること)、第4に、1個の細胞は原則1種類の抗体しか産生できないことなどである。これらの結果から、指令説は次第にその正当性を失っていった。
そこで蘇ってきたのが選択説である。その基本は、無限に近い特異性に対する抗体は抗原に依存して産生されるのではなく、抗原に出会う前に準備されているということで、抗原の役割はそれに対応する抗体を「選択」することに限定されているというものであった。1955年にニールス・イェルネ(1911-1994)が「自然選択説」を唱えた。この説は免疫学が抱える上述の問題を解決するものではあったが、そのメカニズムに誤りがあった。1957年、この説を修正する形でマクファーレン・バーネット(1899-1985)が「クローン選択説」を提唱。現在の理解は、免疫特異性のレパートリーは何らかのメカニズムであらかじめ準備され、1つの細胞は1つの特異性を持ち、抗原に出会うと抗体産生細胞と記憶細胞が生まれ、自己成分に対する寛容(無反応)は細胞が未熟な段階でシステムから排除されるというものである。これが免疫学のパラダイムとなった。
次に問題になったのは、膨大な多様性を生み出すメカニズムであった。この先鞭をつけたのが利根川進(1939-)の実験であった。そこから明らかになったことは、本書 p.36-38を参照願いたい。基本的には、生まれつき持っている遺伝子の多様性と、細胞分化の過程で起こる「遺伝子再構成」という過程で生まれる多様性に拠っていることが明らかにされている。これは抗体を産生するB細胞受容体だけではなく、T細胞の受容体についても同様である。
ここで、免疫を担うB細胞の発見、T細胞による特有の認識メカニズムおよびT細胞受容体の解明、さらに抗原をリンパ球に提示する機能を持つMHC(主要組織適合遺伝子複合体)の発見について説明があった。この点については、本書 p.40-51 をお読みいただきたい。
免疫の大枠が明らかになった後に問題になったのが、B細胞はどのようにして活性化され抗体を産生するようになるのかということであった。最初は抗原が細胞の分化段階に応じてB細胞を活性化したり、不活化したりするとされた。しかし、成熟した細胞でも不活化されることが分かり、そこにT細胞の関与が必要であること明らかになった。さらに、そのT細胞も活性化されなければならず、そのためには抗原提示細胞が必要であることが示された。これは、抗原特異性を持たない細胞が免疫反応の引き金を引くことを示唆しており、生体にとって危険な状態にあることが想像される。にもかかわらず、なぜ障害を起こす反応が普通は見られないのかという謎が生まれたのである。
この謎に一つの回答を与えたのが、チャールズ・ジェーンウェイ(1943-2003)であった。それは「感染性非自己」と「非感染性自己」の識別理論と呼ばれるもので、免疫システムはリンパ球による抗原特異的識別ではなく、自己には存在せず微生物に存在する分子を識別するために進化したと主張したのである。この識別をするのが特異性がないと言われていた自然免疫であった。具体的には、微生物で保存された特異的分子パターン(微生物関連分子パターン:MAMP)を認識する受容体が抗原提示細胞に存在していると推測し、それをパターン認識受容体(PRR)と名づけた。免疫反応は、まずこの認識が起こらなければ始まらないとしたのであった。
この説は革新的なものであったが、それでも説明できない現象――例えば、なぜ微生物がいないのに移植片は拒絶されるのか、あるいは自己免疫病を起こすのは何なのかなど――があると批判する人物が現れた。それがポリー・マッツィンガー(1947-)である。彼女は、免疫反応を始動するのは微生物ではなく、宿主にとって害になるものであるとした危険理論を1990年代に発表した。免疫の引き金を引くのは傷害関連分子パターン(DAMP)と呼ばれるもので、自己・非自己を問わない。非自己であっても、自己同士の反応であっても宿主に影響を及ぼさない場合には免疫反応は起こらないというものであった。
危険理論は当初、免疫学のパラダイムになっていた自己・非自己の識別モデルは廃止されるべきであると主張した。これに対して、自己・非自己の識別モデルで説明できない現象は確かに存在するが、それは危険理論にも当て嵌まる――例えば、危険シグナルなしで始まる自己免疫病や慢性炎症など――との批判が出された。免疫反応が限られた法則に従うと考えるのは幻想であり、ここで二者択一をするのは賢明ではないというのである。現在では、バーネットの説、ジェーンウェイの理論、マッツィンガーの理論は、細胞説と液性説の対立のように、それぞれが免疫のある局面を説明するものとして捉えられているのではないだろうか。
しかし、免疫学の歴史には、全く別の視点から免疫を説明しようとした人がいた。前出の自然選択説を唱えたニールス・イェルネである。そのもとになった実験的事実は、一つの抗体分子にはその可変部に抗体固有の抗原決定基(イディオタイプ)があり、それは別の抗体の抗原認識部位によって認識されるというものであった。そこから彼は、この抗体と抗体との結びつきが免疫システム全体に及ぶネットワークを形成しているというイディオタイプネットワーク理論を提唱した。1974年のことである。それから15年ほどの間、この分野の最先端を走る優秀な研究者たちが検討したが、遂に確認されることはなく、現在では忘れ去られている。詳細は、本書 p.69-78 を参照していただきたい。
なぜ、このようなことが起こったのかについて、この理論を検討していたグループの中心にいたクラウス・アイヒマン(1935-)が分析した結果が、The Network Collective (2008) として残っている。それによると、当初は検討すべき仮説として扱っていたこの理論が、時間の経過とともに確立された理論として捉えられるようになり、理論に合わない結果は別の視点からその理論について議論されるべきところを技術的な問題として捨てられていたという。
このような現象を説明するための枠組みが、1935年にポーランドの医師ルドヴィク・フレック(1896-1961)によって記載されていたことにアイヒマンは気づいた。それが「思考スタイル」(thought style)であり、「思考集団」(thought collective)であった。思考スタイルとは、伝統や集団の主観的フィクションによって制約を受ける思考様式を指し、この様式を共有する個人が構成する集団が思考集団であるが、特定の研究領域において閉鎖的なコミュニティを形成することが多いという。アイヒマンは、イディオタイプネットワーク理論の研究グループに思考集団としての特徴を見たのである。そして、フレックへのオマージュとして、彼の著作のタイトルに Collective という言葉を入れている。
今回は時間の関係でここまでで終わったため、このような仮説や理論を提出すことの意義や生物学における統一理論の可能性など、免疫学の歴史から考えられる科学の営みへの問いが残された。これらの問題は、次回以降、折に触れて議論できればと考えている。
(まとめ: 2024年11月24日)
参加者からのコメント
◉ 今回初めて参加させていただきました。第1章では免疫学の成立を追うことで、遺伝子のことも解明されていない時代の先人たちの驚くべき想像力など、科学史を学ぶことの大切さを認識しました。それと同時に、参加者の間で自由な議論が展開していき、知的に楽しい会でした。今回時間切れで触れることの出来なかった、「統一理論は必要か」という点について、科学史を考えるうえで興味深い論点なのでもし次回触れていただく時間があるとありがたいです。
◉ 先日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。免疫そのものについての興味と、免疫が自己と非自己とを認識したり、免疫がメンタルや意志に影響することを考えると、自分とは何か、自分の意志とは何かという哲学的問いになっていく、ということへの興味との両方があり、先生のお話をとても楽しみにしておりました。先日は免疫そのものへの質問ばかりになりましたが、大変勉強になり、参加させていただいたことに大変感謝しております。
抗体の無限の多様性をもたらす可変部の遺伝子の再構成は、少数の要素で無限の多様性を生み出せる、こんなによく出来たシステムが進化で生まれることができるのだろうか?と本を読んだ際にも最も印象に残った箇所の一つでした。
T細胞が、MHCと抗原ペプチドを1つの受容体で認識するという箇所は、お話を伺って理解できるようになりました。
・異なるMHCは認識しない
・抗原ペプチドが結合している同種のMHCを認識する
・同種のMHCでも抗原ペプチドと結合していないMHCは認識しない
このような認識を可能にするT細胞の受容体の構造は一体どうなっているのか??と不思議に思います。
自分の身体を含む生命というものが、よく出来すぎているように感じ、時間をかければこれが偶然生まれるものなのか?という疑問が常にあります。免疫の仕組みも同じように思います。
来年もまた参加させていただければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
◉ 「免疫再考」をご企画いただき有り難うございました。読書会に参加させていただき、私の免疫についての理解が少しずつ深まっていくように思いました。免疫は生命の存在の根源的な役割を担っていると考えられますが、どのようにして自然のなかにこのような複雑なシステムが構成されてきたかが私の持つ疑問です。
読書会の前段で、アラン・バウディの「哲学はつねに始まるのだ」という言葉をご紹介いただきました。第1回目であり、免疫の専門外の私を含め、あれだけの広範な免疫研究の歴史をたどるのですから、時間が足りなくなったのは当然のことですが、科学の新しい理論的枠組みや概念を生みだすものとしての科学者とその哲学的思考との関連性について十分な時間が取れなかったことが少し残念でした。2回目以降の読書会を楽しみにしています。貴重な時間をありがとうございました。
ISHEの会合は、矢倉先生が一夜の茶会のようだと表現されています。様々な方が自由に参加してここでフラットなつながりのもとで対話する。とても貴重で稀有な場だと思っています。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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