16 アナクシマンドロス



第16回サイファイ・カフェSHE

 

日 時: 2023年3月8日(水)18:00~20:30 

テーマ: アナクシマンドロスと科学的精神

講 師: 矢倉英隆(サイファイ研究所ISHE)

会場: 恵比寿カルフール B会議室

 東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1

恵比寿MFビル地下1F


 会 費: 一般 1,500円、学生 500円

(コーヒー/紅茶が付きます)


参加ご希望の方は、she.yakura@gmail.com までお知らせください

よろしくお願いいたします


会の内容

 前回のサイファイ・フォーラムFPSSから「科学と哲学」というシリーズを始めました。このシリーズは、哲学者がどのように科学を見ていたのかを中心に科学と哲学の関係を考えるものです。初回にソクラテス以前の哲学者として取り上げたアナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)は、世界の原理(アルケー)を「非限定的で無限なもの」(ト・アペイロン)とし、我々の大地は浮いているという極めて新しい見方を提示しました。

 今回のサイファイ・カフェSHEでは、「ト・アペイロン」のさらに深い意味を探り、この哲学者を最初の科学者として高く評価している理論物理学者カルロ・ロヴェッリ(1956- )の見方を辿りながら、科学的思考の特徴について再考することにいたしました。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

*『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』(河出書房新社、2022)という邦訳があります。

 (2023年1月7日)




会のまとめ







今回のテーマとして、紀元前6世紀のアナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)を取り上げた。それは、昨秋の第7回FPSSにおいてソクラテス以前の哲学者を振り返る中でわたしの前に現れ、13年前の記憶が蘇ったためである。まず、彼の師であるタレス(c.624 BC-c.546 BC)や弟子のアナクシメネス(585 BC-525 BC)が考えたような明確に規定されたものではなく、形容しがたいものを世界の始原(アルケー)としたことに興味を惹かれたことがある。そして、今回参考文献としたカルロ・ロヴェッリ(1956- )氏の本の仏訳を2010年に手に入れ、そのママになっていたことを思い出したのである。いずれその時が来ると思って手元に置いていたのだが、その時が13年目にやっと巡って来たということになる。

紀元前6~5世紀のイオニアの哲学者たちを、アリストテレス(384 BC-322 BC)は 「ピュシオロゴイ」(physiologoi;自然論者)と呼んだ。ハイデガー(1889-1976)によれば、それは現代生物学の一分野にいる physiologist(生理学者)ではなく、全体としての 「もの・こと」 について問う人、ピュシスphysis; phusis)についてはっきりものを言う人のことである。

古代ギリシア人にとってピュシスとは何を意味したのだろうか。初期には、人間によって生じせしめられた人工物と対比される、常に内にある何かで、自ら立ち現れるもの、さらに言えば、根源的原因(原理、本質)を指していた。それが後になり、現在我々が自然と呼んでいるものに近い世界(コスモス)と共通する自然的事物の総体を指すようになったと言われる。physis の "-sis" には「成長」の意味があり、「起源」「過程」「結果(コスモス)」 の全過程を含んでいる。イオニアの自然哲学者たちが創った「ピュシス」という概念を前者の根源的な原因という意味で捉え、自然のアルケーを探究したのである。始まり、第一原理、始原(すべてのものがそこから来てそこに還るところのもの)という意味のアルケーであるが、この言葉を哲学的なコンテクストで最初に使ったのは、今回の主人公アナクシマンドロスだと言われる。





アナクシマンドロスは紀元前610年頃、当時ギリシアで最も栄えていたミレトスに生まれ、紀元前546年頃に亡くなる。享年約64。タレスの影響下に思索を重ね(タレスの十数歳下)、アナクシメネスの師に当たる。彼の野心は宇宙の原理を見つけることだった。現代の研究者は、著作『自然について』(ペリ・ピュセオース; Perì phúseôs)を残しているという点から、哲学(科学)の創始者をタレスではなく、アナクシマンドロスとする見方を採る傾向があるという。

アナクシマンドロスはアルケーを、境界や限界のない、通り抜けが不可能な宏大、膨大、無限を意味するト・アペイロン」(to apeiron)とした。これは水をアルケーとしたタレスや空気をアルケーとしたアナクシメネスとは大きく異なっている。複雑な世界を明確に規定されたもので説明することは不可能であると考えたのではないかと想像される。

ロヴェッリさんはアナクシマンドロスの貢献を以下のようにまとめている。

1)気象現象は神の力を借りずに自然に由来する原因によって説明できる。例えば、雨の水は海水に由来し、雷鳴・稲妻は雲が激しくぶつかったからで、地震は地殻の亀裂によるとした。

2)地球は支えなしに空間に浮いている物体で、地球の下にも空がある。なぜそのような説明ができたのか? 太陽は東から登り、西に沈む。翌日にはそれが再び東から登り、やはり西に沈む。これを毎日繰り返すところから、太陽が西から東に移動できるスペースがなければならない、つまり地球の下には何もないはずだとアナクシマンドロスの理性は告げたからではないか。それは好奇心と同時に知性の明晰さがもたらしたものに他ならないとロヴェッリさんは言う。

3)上述のように、自然を形成する多くのものは1つのアルケーに由来し、彼はそれを「アペイロン」とした。

4)1つのものから他のものへの変容は、偶然によるのではなく「必然性」によって調節されている(法則のようなものによって支配されている)とした。

5)最初の地図を作った。












6)すべての動物は最初、海や水の中に棲んでおり、最初の動物は魚か魚のようなものだった。人間は栄養補給を他の生物に依存しなければならなかったので、現在の形では出現できない。おそらく魚のようなものに由来するとした。アナクシマンドロスが種は固定しているのではなく生物変移説を信じていたように見える。人間を自然の中に置き、特別な存在とは捉えていなかったという点で、非人間中心主義を見る人もいる。

7)上述のように、自然現象に関する最初の本(詩ではなく散文)『自然について』 を書いた。

8)日時計(グノモン)をギリシア世界に導入した。


『グノモンの技術を教えるアナクシマンドロス』

その上で、アナクシマンドロスに欠けていたものとして、自然現象は必然性によると考えてはいたが、現象の背後にある数学的な法則を見つけようとはしなかった。これは、次世代のピタゴラス(582 BC-496 BC)学派を待たなければならなかった。第2に、実験という考え方がなかったことが挙げられる。こちらは2,000年後のガリレイ(1564-1652)まで待たなければならなかったとロヴェッリさんは見ている。




ロヴェッリさんはアナクシマンドロスの中に、次のような科学精神を見ている。その1つは、七賢人の一人でもあった師のタレスに対し、「海に浮かぶ筏としての大地」という見方に異議を唱え、「大地は固形の円筒状の物体で、水ではなく未分化で無限なもの(ト・アペイロン)に囲まれている」とした。支えがない状態で宙に浮いているという革命的な見方の転換を行ったのである。科学的思考の核心には仮説や結果を絶えず検証することがあるが、他のところ(例えば中国)では師の考えを批判の対象にするという精神は生まれなかった。アナクシマンドロスの中に科学精神が表れていたとロヴェッリさんは見ている。この精神はアナクシマンドロスの弟子アナクシメネスにも見られ、タレスと同様に大地平坦説を採り、この世界のアルケーを「空気」(アエール;プネウマ)であるとした。

最後に、ロヴェッリさんは科学というものを次のように特徴づけている。

1)科学には永遠に有効な知は存在せず、それまで正しいと見做されていたものが覆ることがある。

2)科学の特質として、法則を用いて将来を予測することが挙げられるが、科学をそこだけに還元してよいのか? 実利はあるが、科学を技術・計算・道具などに矮小化するのはよくないのではないか。科学の実質は、この世界の認識を新たにする事実を明らかにすることである。

3)科学知の目的は、この世界がどのように動いているのかを理解し、世界のイメージを構築することだが、その進捗に休みはないものの微々たる更新の連続である。科学精神とは本質的に、すべての確認されないことや永遠の真理というもの(権威)に批判的で、反抗的で、不寛容の性質を持っている。

4)トマス・クーン(1922-1996)が唱えるように、科学知は断絶(パラダイム・シフト)を経て進化するとする見方に対し、ロヴェッリさんは疑義を呈する。科学革命は過去の蓄積を詳細に研究した結果で、科学知には連続性があるという立場を強調する。
   
5)科学の進歩は新しい代替理論をゼロから自由に考えるところからではなく、過去に蓄積された知を絶えず見直し、修正するところから来るのである。つまり、クーン流の科学理論の通約不可能性は存在せず、知には連続性があると考えている。例えば、コペルニクス(1473-1543)の 『天球の回転について』 は、プトレマイオス(c.83-c168)の 『アルマゲスト』 の改訂版のように見えるという。

6)科学の信頼性は、確実性の欠如、批判の受容にある(一見、逆説的)。 反科学主義者は、科学に確実性や傲慢さや技術の冷たさを見て科学を批判する。 しかし、科学ほど自らの限界を知っている知的営みはない。 科学は最も美しい人間の冒険であるというのが、ロヴェッリさんの結論であった。






イオニアの自然哲学者の歩みを振り返ると、わたしは彼らの末裔であることを感じる。ひょっとすると、近刊の拙著『免疫から哲学としての科学』にも彼らの精神が憑依していたのではないかとも感じる。いずれにせよ、自然に向き合う彼らの気迫を呼び戻さなければならないと思い直した一夜であった。


(2023.3.9)




参加者からのコメント


● 昨夜ありがとうございました。アナクシマンドロスの考え方が、どのように現代の科学に受け継がれているのかということに気づかせていただいたと思っております。二次会でもお話しましたが、私は脳の見方で全体論的な考えと局在論の考えが歴史的には交互に現れたということに興味を持っており、おそらくその2つの見方はギリシャに遡るのではないかと思っております。タレスとかアナクシマンドロスなどはかなり物を全体的に考える考え方なのかと思いました。今後も、矢倉先生の科学者としての目からみて、これは後世に影響を与えているという哲学者について一人ずつ取り上げて、講義を続けていただけると幸いです。

● 昨日はありがとうございました。久しぶりでしたが、時が一気に繋がったような感覚を覚えました。「アナクシマンドロス」という科学・哲学者の存在を知るチャンスをいただき、多くの学びを得ることができました。タイミングが合えばまた参加させていただきたいと思います。取り急ぎお礼まで。

● 昨日は第16回SHEに参加させていただき、ありがとうございました。ちょうど良い人数の集まりで、バックグラウンドの異なる方々から発せられる有意義な問いと、的を射たコメントの数々に、大いに触発されました。

昨夜の議論を振り返って思うのは、科学を哲学とは別物と捉えず、「自然科学は(現代でも)哲学に内包されている」と考える方が良いのではないかということです。(矢倉さんの提唱する「科学と哲学の融合」とは違う話かもしれませんが)つまり、哲学はその始まり以来、森羅万象の「究極の真理」に到達することを目的とした精神的営みであり、自然科学はその「対象」として「形而下の存在」を扱う一分野である、という位置付けです。
「何を今さら」「そんなこと当たり前だ」と言われそうですが、この"見取り図"を今一度確認してからでないと、個別具体的な議論に進めないような気がします。
どこに向かって航海するかを相談する時に、各人が違う世界地図を持っていたらどうなるか、容易に想像できますよね。

さて、タレスやアナクシマンドロスが森羅万象の始源に興味を持ち、その対象が現代でいう自然科学の対象であったことはだいたい分かりました。では、それ以外の対象である人間の意識や認識(精神あるいは霊魂)、倫理や社会、生命そのものetc. について、始源(あるいは真理)を求める営みはどのように深められていったのでしょうか。

例えばプラトンの『饗宴』について、私はこれまで「愛の追求」をめぐって風変わりな譬え話が綴られたつまらない本だと思っていたのですが、どうもプラトンの言いたかったのはそんな表面的なことではないらしい、と最近ようやく気付きました。特に、ディオテマという異国の女性が語るくだりは謎めいていて、とりわけ重要そうに見えます(その意味は理解できていないのですが)。「そんなものは解説書がたくさん出ているからそれを読め」と言われてしまいそうですが、可能ならば矢倉さんに、「ディオテマの台詞をどう解釈し、プラトンがこの本で読者に伝えたかったメッセージは何だと考えるか」について語っていただく機会を設けていただけると良いな……、などと思っています。

● 貴重な知的時間・空間を設けていただきありがとうございました。古代ギリシアの自然哲学者たちは、高校で学ぶ倫理という科目の最初に登場する哲学者たちで、この世界の根源(アルケー)を探求した足取りを追うことで「ものの見方」がダイナミックに変遷していく点に、面白みがあるなあと感じていました。とりわけアナクシマンドロスの考えたアルケー「ト・アペイロン」は、かなり画期的な視点なのに、次に出るアナクシメネスによってアルケーは「空気」だ、と再び具体的な物をアルケーとする枠組みに戻ってしまっているな、なぜなんだろうと疑問に思っていました。アナクシマンドロスの超越的で俯瞰的な視点・世界観は、当時にあってはあまりに先駆的過ぎて、だれもついていけなかった(みんな引いちゃった?)のでしょうか。彼が造った世界地図を見ても、「イタリア半島の形だいたい合ってるじゃない」と驚きました。アナクシマンドロスがどのような生活環境に生きていたのか、ということも興味深いです。私は短絡的に、大自然に囲まれて、ひたすら自然を見つめていたんだろうくらいに考えていましたが、白石氏のご指摘「市中山居」、それから現代アートと「ものの見え方」への言及に、私もかつてコンテンポラリーアートの展覧会に行った後で街の風景が全く違って見えた経験を思い出し、確かにアナクシマンドロスは、物や世界の「見え方」が常人とは違っていたのかもしれない、そしてそれは都市生活のなかでこそうまれるのか! と腑に落ちた気がしました。アナクシマンドロスに関するロヴェッリ氏の本『科学とは何か』も英語訳に先駆けて日本語訳が出版されているとのこと、ぜひ読んでみようと思いました。

● 先日は東京にて会を催して頂き、また、アナクシマンドロスに着目する機会を与えて下さりありがとうございました。第9回以来7年ぶりの参加でした。彼の哲学やその歴史的意義について今後理解を深めていければと思います。また、本会の最初期から参加されている方々との再会や、多様な参加者の議論を拝聴したことはよい刺激となりました。次の機会においてはまたどうぞよろしくお願い致します。

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