17 免疫



第17回サイファイカフェSHEのお知らせ

ポスター

テーマ:免疫から哲学としての科学へ』を合評する

日 時:2023年11月17日(金)18:00~20:30

会 場:恵比寿カルフール B会議室


https://www.ebisu-carrefour.com/


カフェの内容

今回は、今年3月に刊行された拙著『免疫から哲学としての科学へ』(みすず書房)を取り上げ、多方面から論評し合う会といたします。その過程で、免疫という現象についての理解を深め、科学と哲学の特徴と両者の関係について見直す機会になるとすれば幸いです。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。


参加費: 一般 1,500円、学生 500円

     (コーヒー / 紅茶が付きます)

参加希望者は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。



会のまとめ




今回は、今年3月に刊行した拙著『免疫から哲学としての科学へ』を合評する会とした。参加された中で免疫学を専門とする方は2名だけで(内1名は大阪からの参加であった)、他の方は多様な分野の専門家であった。議論を振り返れば、各所に意見の鋭い対立があったり、この手の本に求めるものの違いが浮き彫りになったりしたが、全体として見れば豊穣なる会話が展開したと言えるのではないだろうか。ソクラテス以前の哲学者ヘラクレイトスがいみじくも言ったように、対立こそ生き生きとした多様性を生み出すものであり、それがないところには凡庸な均一性しか生まれないのである。

まず最初に、免疫学者の感想から伺ったが、まとめると以下のようになるだろうか。今から20年ほど前にご自身の研究にワクワクしなくなった時期があり、それは日本の科学の衰退が始まった時期と一致している。同時に、この本に書かれている免疫学の大きな枠組みの変化や新しい概念が生まれる過程などの歴史に照らせば、免疫学の重要な問題が解決された時期にも一致していたのではないだろうか。今はその枠組みの中でいろいろな部分を埋め合わせる作業に明け暮れているように見える。このような歴史的部分(前半)は若い研究者にも読んでもらいたい。

後半の哲学的な部分にはやや不満を感じた。著者はあくまでも科学者として哲学を捉えていて、哲学から科学を見るというところまでは達していないという印象で、もっと哲学的な思索を読んでみたかったからだ。また、免疫学者が興味を持ちそうなテーマ、例えば、リンパ球の集団としての動態のような問題についても哲学的省察があってもよかったのではないか。

この点についての著者の意図は、今回の本で哲学の中の問題を解決するという視点はなく、あくまでも免疫の中にある本質的な特徴を哲学の概念を借りて理解しようとすることであった。その意味では、免疫と哲学が絡み合う最初の試みとして捉えていただければ幸いである。将来、新たな機会が出てきた時には、もっと自由な思索が展開できるよう準備したいものである。

すべては物理化学的に解決することができるという立場のもうお一人の免疫学者は、修士の学生にとっても少し難し過ぎるのではないかという印象を持ったようだ。それから、科学から哲学に移行するところの論理がよく分からなかったとのこと。科学に哲学は必要ないという立場ではあるが、いくら科学を突き詰めて行っても我々が生きる意味だとか、人生に対する満足感の様なものは得られず、それに対する回答を得るには哲学が必要になるのではないかとのことであった。

この点に関連して、次のような指摘があった。科学者と言っても均一の集団ではなく、この本の著者のように科学の成果について哲学的な省察を加えるのをよしとする人から、物理化学的還元主義を金科玉条とする人までの間に多様なタイプがいることを理解する必要がある。かつてサイエンスライターのジョン・ホーガンがトップレベルの科学者にインタビューしたところによると、哲学的な思索をする人は少なくないという。しかし、日本の科学者にはその側面が欠けているのではないか。その結果、大きな枠組みや概念が日本からは出ていないように見える。

(注)ジョン・ホーガン『科学の終焉』(徳間書店, 1997)『続・科学の終焉』(徳間書店, 2000)

神経心理学の専門家からは、事実を出す科学だけではなく、この本の著者のように、もう少し大きな枠組みで議論される風土が必要なのではないか。還元できればすべてが終わるのではなく、そこから別のレベルでの思索をする科学があってもよいのではないかとの発言があった。

また、科学と哲学はどちらかが上とか、他方を無視するというようなものではなく、同じ平面にある営みと見るべきではないかとの発言もあった。基本的には、科学の目的をどこに置くのかということが問題になる。宗教的な立場から見れば神を指し示すためにあり、唯物論者は物質レベルのことが分かればよいと考え、この著者のような立場の人であれば、物質レベルの現象を別の次元で(形而上学的に)理解することだと考える。つまり、科学として捉える範囲は決められているわけではないという指摘である。

さらに、還元主義者のように科学と哲学は別物だという考えには賛成できないという意見が出された。還元的なやり方がよいのだという信念が本当に正しいかどうかは分からない。科学者は陰に陽に時代の精神に影響を受けており、研究を支援する側もその影響下にある。科学の目標をどこからの影響も受けることのない絶対的真理の発見というところに置くと間違いを犯すのではないか。

この点に関連して、このような問題を考えるためにも哲学的なアプローチが必要になるが、そのために依拠すべき科学についての思索の跡に対する感受性や教養が、日本の研究者(および科学に関わっている非科学者)には欠けているとの指摘があった。わたし自身も同じ印象を持っている。それがないと、科学の進むべき道や何を科学の目的にするのかというところについての深い議論も生まれないだろう。

このような日本の状況には、歴史的な判断も影響があるのではないかという考察も出された。例えば、ドイツでは自然科学と神学を分けたが、イギリスはこの両者の間に相補関係があるという考え方を採ったという。そのためケンブリッジ大学などでは現在でも、科学と宗教に関する研究が盛んに行われているようだ(ファラデー研究所など)。工学をやって来られた方からは、日本は応用から入っているのでどちらかと言えば、他の文系の領域との関係を絶ったドイツに近いのかもしれないとの発言があった。現状はさらに先鋭化して、これまでの興味に基づく研究は排除され、応用や技術的なテーマが推進されるようになっている。これからどのような道を進むのかを流れに任せるのではなく、我々自身が考える必要がある。その際、どうしても哲学的要素を加えた思索が求められるのではないだろうか。

この他、真理(アレテイア)とは何か、人間の不完全な認識能力でそこに到達できるのか、科学者はどう生きるべきなのか、など多くの本質的な問題が議論された。

(注)今回のサイファイ・フォーラムFPSSで「真理」(alētheia) の語源的解釈について触れた。ハイデガーによれば、忘れられたもの(lētheia)の否定(a privatif)で、それまで隠されていたものを明らかにするという意味になる。また、プラトンの解釈によれば、この語源は alē(放浪)+theia(神的な)でバッコスの放浪、さらに言えば、真理の探究はパッションであり一つの狂気ということになる。プラトンの分析には惹かれるものがある。




(まとめ: 2023年11月18日)



参加者からのコメント


● 本日は、たいへん興味深い議論の会に参加させていただき、光栄でございました。免疫学の大家の先生方がおそろいの場に、小職1人だけが異分子であったかと。きっと、先生方のお話の半分も理解できていないことかと存じます。ご寛容をいただき有難うございます。次回は3月とのこと。必ず、出席させていただきたいと存じます。ひきつづき、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。


● (上の内容)上手くまとめられていると思います。楽しい時間を過ごせました。有り難うございます。


● 科学というのは、人が自然現象、あるいは自分自身を理解するための営みであって、この営み自体は何ら哲学的なものではなく、自然を相手に淡々と現象を要素に還元し、そこに潜んでいる原理、法則を明らかにすることが目的である。原理、法則が明らかになると、それを利用してその現象を再現したり、結果を予測したり、さらにはその法則を利用して自然現象そのものを制御する、というのが科学の営みであろう。この過程そのものに哲学が介入する余地がないことは自明のことであり、介入させてはいけないということを申し上げたつもりである。 

ところで、人がどの様な現象に興味を持つか、は人それぞれによって異なっており、その人の置かれた時代や環境、考え方の影響を強く受けるもので、この過程にその人の哲学が反映されることは否定するつもりはない。私の考えの中では、人が何に興味を持つかは全く自由であり、正解というものは無く、従ってこれは広い意味での哲学の領域に属することで、科学の範疇には含まれないと考えている。先日の議論ではこの辺の境界の置き方が人によって異なっていたために議論がやや噛み合っていなかった印象を持っている。哲学、科学の意味するところを厳密に定義する必要があるであろう。本著においても科学の成果を省察して形而上学的に考え直す必要がある、と書かれているが、科学は絶対的な真理を目指すものであり、科学の成果そのものは動かしようもないのではないだろうか。むしろ、その成果をどの様に利用するか、とか、あるいは遡ってどの様な分野の現象に着目すべきかに哲学的思考を動員すべきではないだろうか。

 先日の議論の中で、我が国に独創的な研究が減ってきている理由に関する議論がなされたが、これは現象の解析手法が還元主義的であるからダメなのではなく、やはりどの様な現象に興味を持ったか、という点が大きいのではないだろうか。ある研究者が何に興味を持ち、何を知りたいと考えるかは、広い意味でその人の哲学が反映していると考えられる。現在の日本ではこうした発想の欠如に加え、せっかくユニークな発想を持った人がその研究を続けられる様な環境が与えられていないことが大きく影響していると思われる。特に、若い人はその時代の流行に迎合した様な研究の方が研究費や雇用の面で優遇されやすいため、独創的な人ほどなかなかそのユニークな発想を形にまとめるところまで辿り着けないのではないか、と危惧している。結局は哲学が無いというより、適切な政策が行われていない、ことに問題がある様な気がしてならない。


● 『免疫から哲学としての科学へを拝読した個人的な感想は、免疫の研究における膨大な科学的な成果を精緻に論理的につなぎ合わせ、そこにある形而上な要素を抽出しそこから見えてくる新しい見方を提示するという先駆的な試みであり、矢倉先生が提唱する科学の形而上学化を、免疫という事象を通じて具体的な形で多くの科学者に提示し、その思考に変容を齎そうとする意図が十分に感じられるものでした。

免疫に門外漢の私は、現象の細部までを追跡することはできないのは当然のことですが、免疫という現象が動植物からバクテリアまでにひろく存在し、自他を認識するための情報の感知、統合、反応そして記憶という共通する機能があり、そこには生物が生命を維持するために備える最小の認識(ミニマルコグニション)が存在し、共生と対立の世界がある。従来の人間を中心にした免疫の見方から地球上のすべての生物に対する理解へと解釈の幅を拡げておられることに思考の柔軟性と豊かさを感じました。ものことは見方をかえれば違うことも見えるものであり、矢倉先生は、免疫とは生の規範性や心的性質をも包摂する事象ではなかろうかとも洞察されています。最後に、これは有機体の哲学と心の哲学のあいだ橋をかける試みであり、そしてそれは科学の進展とともに改定される運命にある、と現在進行形で結んでおられます。

全文をつらぬく美しい文章は、免疫を専門としない人間を、免疫という複雑科学の世界へといざなってくれるものでした。そして免疫研究が遺伝子解析という手段を得て新たなステップへと展開していることを認識させてくれる貴重な本でした。

当日、議論になった科学に対する考え方については、科学の「方法」が要素還元的でなくてはならないという考え方は多くの科学者の共通認識であろうと思います。そして哲学は人間の思考の幅を拡げるものであり、科学の方法そのものに介入するものではないと思います。一方で、科学で自然の全ての事象を解明できるかという議論に対しては見解がわかれるところだと思います。科学ですべてを解明すべきということは一つの考え方であり、科学ではすべてを解明できないと考えるのも現状から認識であろうと思います。自然は偉大な創造物であるという考えもあります。この議論も科学の進展とともに認識に改定が加えられていくものであろうと思います。

大変に貴重な時間を持たせていただきありがとうございました。


● 1.哲学における「進歩」とは?

 会では、科学は要素還元主義に基づき、因果関係を追究し、その成果が「進歩」として示されるのに対し、哲学では、古代ギリシアから現代まで「進歩」と言える成果がないとの意見があった。確かに哲学では、古代ギリシア思想・哲学より現代哲学の方が「進歩」していると考える人は少ないであろう。では、哲学おいて、科学の「進歩」に相当するものは何であろうか? それは、哲学は事物・事象、世界に対して新たな見方を呈示し、それに基づき思索を展開させていくものとして、視野を「開拓」することが「進歩」に相当すると考える。


2.私の哲学「開拓」体験

 この「開拓」に関することで当方が最近、体験したことを2つ紹介したい。

 1つ目は、今年読んだ「なぜか宇宙はちょうどいい」(参考)で、数々の物理定数が、生命がちょうど誕生するよう微調整されていて、その絶妙さは理論的に説明できないオーダーのものだと書かれていたことである。同書では、「もし、各種の物理定数が現状より過小~過大だったら、世界はどうなるか?」との仮想物理の状態を想定していて、「定数」と言う固定観念の"たが"を外された。高校物理で、物理定数(重力定数、光速、電子のクーロン力等)は、暗記し、その公式で試験問題を解く手段に過ぎなかったところ、「微調整されたかのような世界」との視点で、物理・生命現象を観る視野が拓かれる思いがした。電子のクーロン力も物理での電荷間に働く力の文脈でしか考えていなかったところ、その力が化学結合の基となり、ひいては生命現象を担う化学反応として適切な値になっているとの認識を持つことができた。

 2つ目として、会の後の日曜日に、サイエンスアゴラ(参考)に参加した際、原生動物の展示ブースにおいて、顕微鏡で視野から外れて動き回る、ゾウリムシ等の原生動物達を観察した際に得たものである。水中を「湾曲自在な櫂」で掻くような、繊毛のユニークで効率的な運動が、「ダイニン(dynein)」と言う分子モータータンパク質複合体によるものだとの説明を受けた。このダイニン構造は、あまりに機能的で効率的なので、太古の生物が採用してから現在まで、その仕組は変わっていないとのことであった。ミクロな世界のヒトとは違う生物のユニークな動きだと顕微鏡を眺めていたところ、ヒトの喉の繊毛も、同じ仕組で同じ動きだとの説明を聞いて驚いた。ヒトとは別スケールの世界のものと思い込んでいたところ、自分にも「繊毛ダイニン」があると気付かされて、生物には「多様性と単一性が併存している」との思いを新たにした。もちろん、喉の繊毛のことは、感染症関連で意識していたが、原生生物とヒトと言う、別文脈での知識に止まっていたものである。この「生物のダイバーシティとユニバーシティ」と言うことにも、生命・物理現象を観る視野が拓かれる感を受けた。

(参考)

○「なぜか宇宙はちょうどいい」松原隆彦 著 誠文堂新光社

※"ゆるキャラ"挿絵多数

 松原隆彦 先生HP

○自然科学カフェ:自然科学ダイアログ(第11回) 2023年9月30日(土)

 「万物の理論」は果たして存在するのか?

※発表資料の「2」に当方の発表資料を掲載

サイエンスアゴラ2023

  「単細胞」なんて言わせない! 原生生物、驚異の生存戦略

  ジオラマ行動力学、北大中垣研究室、東京農工大篠原研究室  

 https://twitter.com/dioramaethology

 https://peatix.com/event/3699623/view


3."自身の中に知恵の産婆役のソクラテスを宿す"「免疫哲学」の開拓に向けて

 会は、当方以外は各分野の専門家が出席していたので、各自の専門分野の考えで意見を述べると言う姿勢が中心であった。もちろん、これは当然なことではあるが、それだけに終始していたのでは、各自の意見を持ち出し合うだけで、新たな議論や対話は「開拓」しにくいのではないだろうか。会が主にこの持ち出し合いに終わった原因として、知恵の産婆役のソクラテスのように、相手の意見に問いを立てたり、相手の意見について、自身の考えや体験で当てはまるかと振り返った上で意見を述べたりする機会かなかったからではと思う。哲学カフェで、この産婆役は、「ファシリテーター」と言うが、主宰者が進行管理をせず、参加者が対等な立場で意見を述べ合うことを旨とする本会では、参加者自らが意見陳述者であると同時に"知恵の産婆役"を"兼ねる"必要がある。この点、本会は「会話」はあっても、「対話」まで至らなかったと思う。

 また、参加者が専門家のため、理屈の展開が中心で、前述の当方の2つの体験のように、自身の体験から哲学的要素を拾い出し、それを基に思索する機会がなかったと思う。これらの点について、会の課題と考える。

 免疫の学問研究について、その「進歩」はあっても、免疫を素材に哲学を「開拓」する試みは、本会以外ではまず見当たらないであろう。今後、参加者各自が、"自身の中に知恵の産婆役のソクラテスを宿し"つつ、自身・他者、理屈・体験と、これらの間での対角線で対話を交わし、「免疫哲学」の地平の視野を「開拓」していくことを期待する。


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