14 技術(ハイデッガー)




第14回サイファイ・カフェ SHE



日 時: 2019年4月12日(金)18:30 ~ 20:30

テーマ:「技術」(テクネ-)から現代を考える

講 師: 矢 倉 英 隆(サイファイ研究所ISHE)

会 場: 恵比寿カルフール B会議室

東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1
恵比寿MFビル地下1F

参加費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒー/紅茶が付きます)


今回は「技術」を取り上げます。現代では、科学と不可分なものとして「科学技術」などと言われることが多くなっていますが、この言葉にはどのような意味が隠されているのでしょうか。技術を取り巻くいろいろな問題が指摘されている中、取っ掛かりとして20世紀ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(1889-1976)と共にこの問題について考えることにいたします。ハイデッガーの考えは『技術への問い』(関口浩訳、平凡社ライブラリー、2013)などで知ることができます。最初に講師から見たこのテーマについての問題点を概説した後、参加された皆様に議論を展開していただきます。興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

(2019年1月31日)

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会のまとめ

第14回サイファイ・カフェSHE、盛況のうちに終わる(2019.4.13)


科学と技術の問題は、その関係も含めてこれまで多くの人が論考を加えている。今回は、マルティン・ハイデッガーの思索の跡を手掛かりに考え始めようという意図の下、彼の『技術への問い』を中心に読むことにした。言葉遣いが難解なので、わたしが理解したと思ったところを紹介することでイントロとした。

エッセイの冒頭、何かを問うということは道を作ることで、それは思索の道であるという言葉が出てくる。その上で、彼は普通とは違うやり方で言葉の中を進むと宣言する。読み進むと、まさに言葉の中を進んでいる。これまでとは違うやり方で。そして、「技術との自由な関係」が問題にされる。技術と自由な関係を結ぶことができなければ、技術と対等に付き合うことができない。技術との関係が自由になるのは、技術の本質が我々の現存在の前に現れる時であるという。本質を人間存在の中で考え、捉えることができなければ、それは見えてこない。なぜなら、技術の本質は技術的なものではないので、それを中立的なものとして外から眺めても捉えることができないからだ。これはあらゆる問いを出す過程に当て嵌まる極めて重要な点ではないだろうか。

技術の一般的な捉えられ方は、それがある目的のための手段で、人間の活動だというものである。この道具的概念を詳しく見ると、道具の概念があり、その材料があり、そこに手を下してある目的のためのものを作るという4つの要素がある。アリストテレスの4原因説に当て嵌めることができるものである。ハイデッガーは、この定義は正しいかもしれないが、真ではないという。正しいものに止まる限り、真なるものは見えてこないし、真なる本質に辿り着かなければ我々はその対象と自由な関係を結べないという。ここで言う正しいものとは、技術的、中立的な扱いから現れる科学が明らかにするものであるのに対して、真なるものとはそこからさらに問う道を進むもので、哲学が明らかにし得るものではないかとわたしは解釈した。これはISHE研究所が目指しているものと完全に重なる。驚きである。

ここで、ハイデッガーは「原因」について言葉の道を進む。ローマの「カウザ」(causa)は古代ギリシアでは「アイティオン」(何かに責めを負うもの)を意味していた。それは、何かを現前することへと解放し、誘い出し、現前することに向かわせるもので、「誘発すること」であった。プラトンの『饗宴』によれば、誘発は「ポイエーシス」である。「こちらへと・前へと・もたらすこと」(Her-vor-bringen)はすなわち、何かを生み出すことであり、「伏蔵性」から「不伏蔵性」へともたらすことであった。これこそが技術の本質で、ハイデッガーは「開蔵」という言葉で記述している。これは古代ギリシアの「アレテイア」、ローマの「ヴェリタス」に当たり、真理に関わるものである。つまり、技術(テクネー)とは、真理を認識することの一種で、そこで明らかにする(開蔵する)のは、まだ手許にない、現前していないもので、現前させるためには対象の形相(イデア)を完全につかんでいなければならないのである。プラトンの時代まで、テクネーは「エピステメ」と密接に関係していたという。その意味は、ある事柄の前に立ち止まってそれを理解することであった。つまり、原初的には、テクネーとは、ある対象を熟知すること、真理に近づくこと、何かポエティックな(詩的で創造的な)ものを指していたのである。

その地点から現代技術を見ると、どのように映るのだろうか。ハイデッガーの診断は次のようなものである。現代技術における開蔵は、原初的なポエティックなものではなく、「挑発」だという。自然に対してエネルギーをよこせと要求し、開発し、外に運び出し、別のものを促進する「調達」だという。その結果、自然の見方がポエティックなものから技術の調達対象としてのそれに変わってきた。そして、現代における「不伏蔵性」とは、即座に使えるように手許にあり、更なる用立てのために用立てられ得るようにあることとなる。この非自立(自律)的な状態を「用象」と名付けている。この事態が深刻なのは、人間が用立てているのではなく、自然エネルギーを用立てるように挑発されているのは人間の方で、自然よりも根源的に「用象」(非自立/自律的状態)に在ることである。

ハイデッガーは現代技術の本質が体現するこの構図を「ゲシュテル」(集立:総駆り立て体制)と命名したが、これは技術的なものではない。一般に考えられている道具的概念としての技術は、この構図から生れる末梢の現象ということになる。現代では、技術が関わるあらゆる領域でこの構図が当て嵌まり、人間は最初から何かをさせられる状態にあるのだが、その中に入っているのでそれが見えない。開蔵そのものが覆い隠されているのである。したがって、現代技術の危険性は、技術そのものではなく、技術の本質である。致命的な結果は機械や装置によって齎されるのではない。人間が根源的な開蔵へ参入し、原初的な真理の語りかけを経験することをゲシュテルの支配が難しくすることが最大の危険なのである。

今回のハイデッガーの思索からいろいろなことを引き出すことができるだろう。一つは、正しいことと真なるものとの峻別で、前者は科学、後者は哲学が明らかにするものと解釈した。もう一つは、ある対象と自由な関係を結ぶことができなければ、その対象と対等には付き合えないということである。さらに、自由な関係を結ぶためには、正しいものを突き抜けて真なるものに向かわなければならないという。上の二つは密接に絡み合っているのである。ある対象と向き合う時、中立的で科学的な分析だけで終わっていると正しいかもしれないが真なるところには辿り着かない。対象と自由で対等な関係に至るには、そこからさらに問う哲学の道を歩まなければならない。科学が優勢な現代においては、正しいことで終わる思考が罷り通っているが、その先に目をやり、そこに向けて進まなければならないのである。これが今回の大きなレッスンであった。

➡今回のテーマについて、雑誌「医学のあゆみ」にエッセイを書いております。こちらもご覧いただければ幸いです。

矢倉英隆: パリから見えるこの世界 « Un regard de Paris sur ce monde » (74)ハイデッガーによる「テクネー」、あるいは技術から現代を考える.医学のあゆみ(2018.12.8) 267 (10): 800-804, 2018



参加者からのコメント

● 昨夜のセミナーに出席させていただき有難うございました。20年ぶりぐらいの再会でなかったかと思います。10年前にいただいた本の「日々断章」は興味をもって拝読しました。今回セミナーに出席するにあたって、この「日々断章」を再読しました。昨日も全的に考えることがありましたが、ずっとテーマにしていたのだと実感しました。今回のテーマ「テクネーから現代を考える」はチンプンカンプンのところが多かったですが、生き方としての哲学や意識の三層構造などからはヒントを得ることができました。一面ではなく多面的に物事をみれば、狭い価値観が変わるように思えました。懇談会に出席できなかったのが残念でしたが、またの機会を楽しみにしています。益々のご活躍を祈念します。

● 昨日は、ありがとうございました。技術という大変アクチュアルなテーマを、科学者、工学者という専門家を交えて、議論できたことは大きな意味があったと思います。私が感じたのは、ハイデッガーとルカーチの類似性です。両者とも、現在社会への批判的なまなざしを持ち、存在論的な思索で、問題に立ち向かっていると思いました。また、議論の中で私が述べた科学の主観主義性といったものは、恐らくは、労働の存在論を科学に組み込むことで、克服する道が開かれるように、改めて感じました。というのも、労働とは「自然の人間の物質代謝」であり、自然という人間の他者を想定しないと成立しないからです。他者としての自然を捉えようとすると、人間活動に依拠せざるを得ませんので、主観主義の領域を出ませんが、労働存在論を組み込めば「自然という他者の存在」を前提にしておくことができ、客観的なものへのルートを理論的に確保できるのではないかと思います。ルカーチとハイデッガーとの思想的な類縁性については、ルシアン・ゴールドマン(1913-1970)というユダヤ系ルーマニア人でフランスで活躍した哲学者による優れた著作があります。
  • Lucien Goldman, Lukacs et Heidegger (Denoël - 13 septembre 1973)
  • Lucien Goldmann, Lukács and Heidegger: Towards a New Philosophy (Routledge, 1977)

● 昨日は会に参加させて貰い、大変勉強になりました。ハイデッガーの思想については高校生の時に断片的知識を持った程度でしたので、興味深く聴かせて貰いました。形而上とは対極になる?今日的技術にどっぷりと漬かってきた身には、技術の本質的な目的論にも気づくことなく科学技術が独り歩きし始めて、人間が徐々についていけなくなってきたような閉塞感を感じつつ将来を案ずる最近を過ごしているのは昨晩も申した通りです。そういう点で私には時を得たテーマだったと思っています。ただ、哲学に限らず、文科系の方々が使われる日本語が難解で十分に理解できず、消化不良でもありました。できれば、双方が相通じることが可能な共通言語で意見を交換してみたいとも思った所です。総じて非常に難解、かつ微妙な立ち位置にある現代技術を捉えるための手がかりに近いものが得られたかなと感じ、参加して正解だったと思っております。良い機会を与えて頂いたことを深く感謝申し上げます。この辺のテーマが近い将来再び取り上げられるのを期待しております。

● まるで今回はハイデッカーの思考の熱量が乗り移ったような一夜でした。ハイデッカーを読むということは、それ自体が彼の言う「ポイエーシス」(=誘発)に近い体験なのではないかと感じます。すなわち、技術の本質を問い続けるその文章にふれることが、そもそも「何かを現前することへ解放し、誘い出し、現前することに向かわせるもの」として、おおいに読み手の思考を触発してくれるのです。ただし、技術の総駆り立て体制(Gestell)のなかに不可避的に放り込まれている我々にとっては、<技術との自由な関係>がいったい具体的にどういうもので、救いは本当にあるのか、その答えは簡単には得られないのもまた事実です。重要なことは、たとえしばしでもハイデッカーに倣って、問い続けること、思考し続けることだと思いました。最後に、この「サイファイ・カフェ」自体がそれを実践できる貴重な場になっていることに、おおいに感謝申し上げます!

第14回サイファイカフェSHEでは有意義な議論に参加させていただきありがとうございました。多角的な意見と議論から、参加された皆さまが今日の科学と技術の在り方にいろいろな問題意識をお持ちであることがうかがえました。私自身は、工学研究に携わっている時には、まさにハイデッガーの言う「集立」の真っただ中に何の疑いも持たずに立っていたように思います。科学と技術について考える機会はあったのですが、自分の研究の忙しさに紛れすぐに心の底に沈殿してしまいました。定年退職後は、生活環境を一変させたことに刺激されたのか、この問題が再浮上しました。
現代の人間社会は、「技術革新―労働―生産―暮らしー経済活動」が巨大なループとなり、人はそのループに駆り立てられ、取り込まれ、そしてそのループの一要素となってしまっています。まさに「集立」の支配が真理への働きかけを難しくしている状態です。技術は、ニーズを満たすとまた新たなニーズを産み出し、人が技術の革新を追求すればするほど、技術は人間のいろいろな目的をかなえるための欠かせぬ存在となります。このため、ループから脱出することがますます難しくなります。技術は偶然性を持ちます。予期せぬ創造そして危険もたらします。遺伝子編集やAIの開発に多くの人が何かの不安を覚えるのは、技術が人間の存在に関わる領域に進入してきたからだと思います。
しかし技術はこの問題の本質を解決することは出来ません。その問題は人間が扱うものだからです。いま、科学、技術は経済と連動し、人の生存と深く結び付き、問題は科学と技術のありかただけではなく社会としてどう行動すればよいかという問題をも含んでいます。果てしなく自己増殖し続ける巨大なループで人は技術に支配され、もうここから抜け出すことは出来ないように思えます。
ハイデッガーは、人が科学と技術の世界に閉じ込められた状態を開くことは出来ないと言いました。しかしこの閉鎖性を開くのも人間であるとも言いました。現状の問題は、科学と技術を軸とした巨大なループに人が閉じ込められた状況を多くの人が見ようとしていないことにあります。閉鎖性を認識する方策の一つが、矢倉先生の提唱する「科学の形而学化」であると思いますが、この認識の入口に立つのはいつのことかとも思います。ニーチェの「人間は未だ確定されざる動物である」という言葉にかすかな光を感じた次第です。議論に参加させていただき有難うございました。



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(2019年4月17日まとめ)

 







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